井出 薫
人間の知性は、チューリングマシンの意味での計算に還元されるか、これは現代哲学の最重要問題の一つと言ってよい。もし人間の知性が計算に還元されるのであれば、理論認識でも、道徳的行為でも、その土台は計算にあるということになる。そして、それが正しければ、人間と同等か、それ以上の知性を持つロボットの実現は可能になる。実際、ディープラーニングなどの人工知能技術とインターネットと無線技術の発展普及で、人間の知性を超えるロボットの登場が現実味を帯びてきている。それゆえ、この問いは単に哲学的な興味だけではなく現実的な意義を持つ。 この問いの答えがイエスならば、哲学は、哲学的諸問題を、認知科学、人工知能やネットワーク技術などの成果を無視して議論することはできなくなる。哲学者は長く、哲学こそが科学や技術を批判的に論究して、その土台を解明する学だと考えてきた。しかし立場は逆転する。科学や技術が哲学を基礎づける。 もちろん「人間の知性は計算に還元される」という命題は証明されているわけではない。人間の脳はニューロンのネットワークであり、電子回路と同じ構造を持つ。だから、人間の知的能力から身体を制御する能力まで含めて、すべて電子回路上での計算に還元できるはずだというのが、人工知能研究者や数学者などによく見受けられる考えだ。だが半導体素子からなる電子回路とニューロンやグリア細胞など有機物質からなる脳神経系とそれが制御する身体がまったく同じ構造、同じ機能を持つとは限らない。確実に言えることは、脳神経系など身体の様々な能力の部分集合は計算に還元できる、つまり計算という手続きで正確にシミュレーションできるということに限られる。しかし、その一方で、知的能力や身体の制御機能の中で、計算に還元できない部分があるということも証明できていない。そもそも、厳密な証明とは計算の一例だから、計算に還元されないことが存在することを計算で証明することは容易ではない。尤も、ゲーデルの不完全性定理は証明不可能な命題の存在を証明したのだから、不可能だと言うことではない。いずれにしろ、知性が全て計算へ還元できる可能性は存在する。 この問題はどのようにすれば解決できるだろう。チューリングマシンの提唱者、チューリングは、人間の思考を特徴づけるために機械が人間と同じように振る舞うことができるかどうかのテスト、通称チューリングテストを提唱した。しかしチューリングテストに合格するコンピュータが登場したとしても、知性が計算に還元できることの証明にはならない。 さらに問題をややこしくさせるのが、シミュレーションと同等性は異なるということだ。数学では異質な幾何学的対象が位相同型と分類されることがある。たとえばコーヒーカップと浮き袋の表面は位相同型だが、その構造も機能も全く異なる。それゆえ、チューリングマシンで人間の知性がシミュレーションできたとしても、両者の同等性が証明されるわけではない。半導体素子と細胞など有機物質の集合体とは物理化学的にはまったく異なる。しかし、そのことをもって、人間の知性は計算には還元されないということにもならない。 まず問題は知性を「機能」として捉えるべきものかどうか、というところにある。もし機能として捉えられるのであれば、物質的な違いは問題とならない。強度、保湿性、保温性など諸機能が同じであれば、木箱もプラスティック箱も同じと見てよい。では知性を機能とみなすのは妥当だろうか。そこがまた難しい。構造と機能、物と機能、両者の区別はあいまいで、明確に「機能」を定義することはできない。それゆえ、シミュレーション可能であることがどれほどの意義を持つのかははっきりしない。また、機能だということがはっきりしたとしても、人間の知性という機能が、計算に同等であることをどう証明すれば(あるいは反証すれば)よいかが分からない。入力と出力だけを問題とするのであれば、両者の同一性あるいは非同一性を証明することは難しくない。しかし人間の知性に関して言えば、出力に至るプロセスが重要であり、入力と出力だけを問題とする訳にはいかない。そして、このプロセスは内的な思考が介在するために、数学的な明晰さを期待することはできず、計算との比較は難しい。 このように、この問題は極めて難しい。しかし、先に述べたとおり、哲学する者はこの問題を看過する訳にはいかない。かつてハンセン病患者は多くの場所で酷い差別を受けていた。しかし医学の発達で、ハンセン病の正体が明らかになり治療もできるようになったことで、社会的な偏見は大幅に軽減された。科学や技術だけで倫理的な問題を解決することはできない。しかし、倫理的問題でも、科学と技術が果たす役割は極めて大きい。それゆえ、哲学は科学や技術の成果を無視することはできない。知性と計算の問題についても同じことが成り立つ。特に、この問題は人間の本質をなす知性を扱うという意味で、決定的な重要性を持つ。哲学的考察が科学や技術の基礎を解明し、応用の限界を定めることがある。しかし、逆に、科学や技術の知見が哲学に決定的な意味を与えることもある。そして現代においては、後者であることがますます増えている。それゆえ、理論認識に関する問題だけではなく、倫理に関する問題を含めて、科学や技術の知見を十分に考慮して、哲学的な議論を展開することが欠かせない。そして、知性と計算の問題こそが、科学及び技術と哲学の調和の土台となる。哲学は知性の可能性を求め、科学と技術は計算の可能性を求める。哲学と科学の関係を問うことは、知性と計算の関係を問うことと表裏一体の関係にある。 了
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