☆ カントと人工知能 ☆

井出 薫

 18世紀後半に活躍したカントの哲学思想を、人工知能と結び付けることにはいささか無理がある。しかしながらカントの哲学思想は人工知能を考えるうえで大いに参考になる。

 哲学的認識論と認知科学やコンピュータサイエンスはその目的が異なる。哲学的認識論は、真理に到達する方法、正しい行動を導く道徳律を獲得する方法を探究する。そこでは錯覚や誤謬、悪行は批判すべき対象として扱われる。一方、認知科学は、それが真理であれ誤謬であれ、知覚や行動がどのように形成されるかを探究する。後者は獲得された知識や行動が正しいかどうかは直接的には問題としない。もちろん、後者でも、人工知能が正しく知覚し機能するために、真偽や善悪の基準を定め、人工知能やロボットが真理や善を学習するように設計する。しかし、真偽や善悪の基準は認知科学や人工知能論の内部で得られることはなく、外部から持ち込む必要がある。それに対して、哲学的認識論は寧ろ、この基準を与えることを目指す。その意味で両者は異なる学の領域をなすと同時に相補的な関係にもある。

 カントの哲学思想は、基本的に哲学的認識論で、主として真偽や善悪の基準を探究するものだと言ってよい。その意味で、最初に述べたとおり人工知能研究に直接つながるものではない。しかし、カントの時代には、脳は全くの未知の領域で、コンピュータとその基礎であるチューリングマシンの理論などはもちろん存在しない。カントは自然科学にも大いに興味を持ち、宇宙の構造についての研究も残している。カントは、真と善に到達するには何が必要かを考えるに先立ち、人間の認知の構造に注目する。そして、理性を頂点とする感性・悟性・理性の三層の協働により、人間の認知が成立すると考える。この三層の各層の機能と各層の相互作用が適切に働くことで正しい知識や道徳律が獲得される。この三層を大雑把に説明すると次のようになる。感性は外部の諸印象を時間と空間という形式を使って統合し認識の対象となるものを作り出す。悟性は慣性により獲得された認識対象に12個の規則(カント哲学ではカテゴリーと呼ばれる)を適用して合理的な命題を作り出す。この悟性こそが人間の理論的な認識の中核をなす。理性は悟性により獲得された命題群を纏めて体系化する。三層は独立したものではなく、相互に関連しており、構想力とか判断力という能力を通じて相互作用をする。その結果、三層が適切に動作して正しい認識が得られる。カントの哲学は批判哲学と呼ばれるが、カントはこの三層の働きがしばしばその正常な動作から逸脱し、誤謬や二律背反を引き起こすことを指摘している。つまり人間の認知機能には錯覚や誤謬に陥る危険性がある。特に最高位にある理性には二律背反に陥る危険性が常に存在していることが指摘されている。

 カントの感性、悟性、理性を、認知科学におけるパターン認識、計算、学習に対比させることができる。そして、カントに倣うと、人間の認知機構とは、パターン認識と計算、学習という三層で構成されるということになる。これは正に人間の認知機構を的確に表現している。これに対しては、パターン認識や学習もアルゴリズムに基づくものであり、全てが計算に還元されるという異論がある。コンピュータは原理的に人間の認知機構と同等の能力を持つという訳だ。しかし、それが正しいとしても、人間の認知機構を、パターン認識、計算、学習と分けて検討することは大いに意義がある。近年、パターン認識で画期的な成果を挙げて話題になっているディープラーニングは計算理論により導かれたものではなく、人間の脳神経系をシミュレーションしたニューロンネットワークにおける試行錯誤で生み出された技術だ。つまり、パターン認識の飛躍的な進歩は、プログラムに従って動く既存のコンピュータの計算とは異質な手法を使うことで実現された。それゆえ、パターン認識と計算を異質な能力として考えることには、たとえそれが便宜的なものだとしても、合理性がある。学習についても同じことが言える。

 このように、カントの哲学思想は、認知科学や人工知能研究に大いにヒントを与える。人工知能の研究に勤しむ現場の研究者がカントに注目することはほとんどないだろう。またその必要もない。だが、研究が行き詰った時、カントの理性批判の哲学を紐解くことは決して無意味ではない。また人工知能の爆発的普及が見込まれる現在、そのことの社会的な意義と道徳的な諸問題について真摯に検討することが欠かせない課題となっている。そこでは、道徳について深い考察を含むカント哲学を無視することはできない。カント死後、2百年以上の時が経つが、カント哲学の意義は未だ失われていない。


(H29/3/5記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.