井出 薫
私たちはどうやって世界を認識しているのだろう。これは古代ギリシャの時代から哲学の中心課題で、現代においては脳科学や人工知能など個別の科学や技術でも重要な研究課題となっている。 世界の在り方が、意識に反映され、それが認識になるという考えがある。極めて分かりやすい考えだが難点が多い。人間と蜜蜂では感知できる光の周波数が違う。だから視覚の世界は両者で大きく異なる。しかし、どちらも見ている対象は変わらない。物理法則は自然の在り方というよりも、人間の創造物という性格が強い。宇宙論は宇宙の誕生から遥か未来の宇宙について論じるが、宇宙誕生は138億年も前のことで現存する訳ではなく、遥か未来も現存する訳ではない。このように、世界の在り方の反映が、私たちの認識だとする思想(反映論とも言われる)は正しいとは言い難い。さらに、こういう難点もある。数学的真理はどの世界の反映なのか、道徳はどの世界の反映なのか、いずれも答えることはできない。認識とは、必ずどこかの世界の反映だと考えると、こういう解決不可能な問題に突き当たる。 カントは、認識を単純な世界の反映とする思想と決別し、人間の認識能力としての理性に注目する。詳細は省略するが、カントによると、人間理性は、雑多な印象の集合に過ぎない感覚から、時間と空間という形式を使って統一的な対象物を創出し、さらにそれに12種のカテゴリーを適用することで体系化する。そして、この体系化されたものこそが認識なのだとカントは考える。つまり認識とは、外界を素材として使いながらも、基本的に理性により創出されたものだということになる。そして、理性を介さない世界そのものを認識することは不可能だとされる。カントの思想は観念論だとして(世界は物質からなるとする)唯物論者から批判されるが、カント的な発想は脳科学や人工知能でもお馴染みで、観念論という批判は当たらない。脳科学は脳が外界からの刺激を如何にして処理し、行動や思考を導くか、記憶はどのように生じ、記憶がどのように行動や思考に影響を与えるか、などという問題を研究する。これは正にカント的な試みであり、カントを脳科学研究の先駆者として位置付けることもできる。人工知能も同じで、カント的な理性を如何にして現実のものとするかを研究していると言ってもよい。 しかし、カントや、その後継者ともいうべき脳科学や人工知能により認識の成立根拠の問題が解決されたと考えることはできない。そこには二つの問題がある。認識論的には、認識を得るためには人間理性が不可欠であるとは言え、存在論的には、人間より前から世界は存在したし、人間が滅んでも世界は存在し続ける。つまり存在論的には世界は理性に先立つ。それは自明の理とされるが、カント的な立場ではそのことを上手く説明できない。なぜならカント的な立場では、認識は理性の範囲内でしか生み出されず、理性を超えた世界を知ることはできないからだ。カントは理性を超えようとするとアンチノミー(二律背反)に陥ると警告する。では、なぜ私たちは世界の優先性(人間より先に世界は在ったということ)を認めることができるのだろう。私たちは、138億年前の世界(宇宙誕生の瞬間)や遥か先のことについて論じ、かつ科学的な認識を得ることができる。しかし、この事実をカントの思想で説明することは難しい。カントは、「世界が人間理性に先立つ」というような命題は論証不可能だが、それでも真実だと語る。しかし、このカントの主張は説得力に欠ける。 さらに、もう一つ大きな難点がある。人間の認識には歴史性や社会性がある。対象は同じでも共同体や時代が異なると見方が異なる。それは理性の構造が歴史や社会と共に変化するのだとして説明することはできる。しかしカントの思想では、歴史性や社会性をどのように理性が取り込むのか説明できない。脳科学の知見や人工知能の活用で、脳の構造や機能が社会や歴史と共に変動することを明らかにすることはできる。だが、それができたとしても、社会性や歴史性を本当に理解したことにはならない。なぜなら、それは脳の構造や機能の問題ではなく、社会的な連関の問題だからだ。たとえば言葉の意味は心に浮かぶ像や脳の構造などで決まるものではなく、その言葉が共同体の中で、どのように使われ、どのように理解されているかで決まる。しかし、カント、脳科学、人工知能は、この事実を説明する手掛かりを与えてくれない。 カントを超えるために、ヘーゲル、新カント学派、現象学、ハイデガー、分析哲学、ウィトゲンシュタイン、精神分析を含む心理学、社会学、情報科学などが様々な理論を提唱してきた。しかし、単純な反映論やカントの思想が抱える難点を克服できていない。この先も様々な理論が各分野から提唱されるだろう。しかし問題が解決される見通しはない。私たちの認識という最もありふれた存在がなぜ容易に理解されないのか。自分のことが一番分からない。もしかすると、そのことにこそ、人間存在の本質が示されているのかもしれない。 了
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