☆ 人工知能と体験 ☆

井出 薫

 作家や読書家にとっては迷惑だろうが、優れた小説を書く人工知能があると便利だと思う。注文を出すと自分に合う作品を作ってくれる。暇な時、時間を費やすのに最高だし、読書の習慣が身に付くことも期待できる。

 だが、そんなことができるようになるだろうか。話題になる小説を書くことはできそうだ。ディープラーニングなどの最新技術で、ヒット作品のパターンを分析して、売れそうな作品を作る。そう遠くない日に、文学賞の選考委員が、コンピュータが作った作品に賞を与えないように用心することになるかもしれない。

 しかし、人工知能は人のように体験をしない。人工知能のメモリ上に記録は残る。しかしそれは単なる数値の集合体に過ぎず、人が記憶する体験とは違う。美しい女性に恋をし、振られ心に傷を負った者の辛い気持ちを人工知能は理解しない。そもそも、人の気持ちは主観的なもので、当人以外の者は正確にそれを知ることはできない。しかし、恋する気持ち、振られた時の心の痛みや悲しみは、正確に同じかどうかは分からないが、誰にでも想像が付く。誰でも同じような体験をしているからだ。たとえ同じような体験をしていなくとも、親しい者との別れなど辛い思いを誰でも経験するから、当人の気持ちは想像がつく。ところが、人工知能は何物も体験することがない。あるのは、客観的な数値の集合体と数値化された信号の送受信、それらの数値を用いた計算結果の記録だけで、およそ体験と言えるものがない。だから、本当のところで、恋の悩みを理解することはできない。恋の悩みをテーマにした小説を人工知能は書くことができるが、本当に恋の悩みを理解して書いているのではない。文字という記号を操作しているに過ぎない。それゆえ、人工知能は、人の心を揺さぶるような歴史的傑作を書くことはできない。つまり人工知能作家は一時的にヒットする作品を生み出すだけに留まる。 このように、人工知能は体験ができず、それゆえ真に優れた小説を書くことはできない。こういう意見がある。

 囲碁で人工知能は世界トップレベルのプロ棋士を破った。しかし、人工知能は計算と記録をするだけで、囲碁も、勝敗も理解はしていない。況や、勝った喜びや負けた悔しさなど及びもつかない。人間が関わるからこそ、そこに囲碁、勝敗、喜怒哀楽が生じる。見かけは幾ら賢くとも、人工知能は感情のない無機的な世界に留まっている。だから、恋に破れた者の心の痛みなどを理解できないし、それゆえ、真に人の心を揺さぶる偉大な作品を生み出すことはできない。

 これは尤もらしい意見だし、現時点では確かに偉大な作家の偉大な文学作品を超える作品を生み出すことはできないだろう。人工知能はただパターン分析をしているだけで、作品の内容に深く立ち入っているのではない。それは読書になっていない。物理現象としての共鳴はあるが、心理的な共感はそこにはない。しかし、このような考えにも弱点はある。体験とは何かという問いに答えられていないから、人工知能は体験をしないという主張は臆見に留まり明確な根拠はない。たとえ、偉大な作家の偉大な作品には及ばずとも、私に合う作品を生み出すことは決して不可能ではないだろう。単なるヒット作や私には心地よく感じられる作品と、偉大な作品の境界は曖昧であり、それゆえ、人工知能は作家や読書家のような体験をしないからと言って、単なるヒット作品を超えた偉大な作品を生み出せないとは言い切れない。

 とは言え、(明確な根拠を示すことはできないが)やはり体験は重要であり、偉大な作品を生み出すには欠かせない。だから、問題は人工知能に体験をさせることができるかどうかになる。そして、できるとしてどのように実現するかが次の課題となる。人の営みにおいて、体験と表現、理解を重視したのが、19世紀後半に活躍した哲学者ディルタイだ。彼の思想はハイデガーや現象学などにも影響を与えている。彼の研究が人工知能研究に直接役立つとは思えないが、その哲学思想が「体験」を重視していることは興味深い。ディルタイは体験とそれを理解し表現することに人の本質をみた。体験は確かに主観的で直接的には他人には窺い知れない。だが体験は理解と表現を通じて共同体における生の現実に重なる。つまり体験と表現は表裏一体で、それゆえ人工知能に体験をさせようとするとき、表現がその鍵を握る。人工知能作家は、とにかく表現らしきもの(文字の集合体の産出)をしている。それゆえ、人工知能には体験と繋がる表現の原初的な形態が存在する。そこから、人工知能に体験と表現、そして理解という構造を生み出すことが可能ではないだろうか。

 そのためには体験と表現のための身体が欠かせない。CPUとメモリだけでは、人間の補佐に留まる。身体を持つことで表現の意味が生まれ、体験に近づく。体験とは意味を知ることだからだ。さらにインターネットを通じて情報を収集することで人工知能は益々進化し、真の体験に近づく。そして、そのとき人工知能はホメロス級の偉大な作家になる可能性を得るのではないだろうか。尤も、それは感情を持つアンドロイドであり、人に脅威を与える存在になるかもしれない。偉大な人工知能作家の開発は慎重に進めた方がよさそうだ。


(H29/1/9記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.