☆ 想像 ☆

井出 薫

 東大合格を目指していた東ロボ君が合格を諦めたと報道されていた。さすが東大、人工知能をもってしても、その壁は厚かった。ディープラーニングの技術などで急速に進化する人工知能だが、まだまだ課題が多い。

 「馬」を人工知能は理解する。ディープラーニングを使えば教えなくても自動的に学習して「馬」という概念を形成することもできる。「青」も同様に自動的に学習できる。しかし、今の人工知能では、「馬」と「青」を学習しても、そこから実在しない「青い馬」を認識することが容易ではない。一方、人は自然の中で青い馬と出会うことはないが、合成された青い馬の写真をみれば、容易に「青い馬」と認識する。

 二つの概念を合成することは容易ではない。実在しないが「青い馬」は理解できる。「青い椎茸」も理解できる。「青い太陽」も違和感はあるが理解できる。しかし「青い偏微分方程式」は無意味であり理解しがたい。それでも人は「青い偏微分方程式」が無意味だということを認識することができる。「青い哲学」や「青い音楽」も無意味だと認識できる。尤も「青い哲学」は「青臭いことを言う哲学科の学生」の隠喩として使うことができる。「青い音楽」は気持ちがブルーになる音楽という意味でこちらも隠喩として使える。適当な文脈が用意されていれば、人はどちらも理解できる。また、「顔が蒼ざめる」という表現を、実際には顔は蒼くなっていないのに、動揺を表現するために使うこともできる。こういうことが人工知能にはできない。

 では、人はどうして、実在しない「青い馬」や「青い椎茸」を理解し、「青い哲学」や「青い音楽」を隠喩として使うことができるのだろうか。それは人には想像力があるからだと思われる。「目を閉じて青い馬を想像してごらん。」と言われて、私たちはそれを容易に実行することができる。実在物のような鮮明な映像は得られないが、それでも脳裏には青い馬が浮かんでいる。「青い→気持ちが沈んでいる」という連想から、「青い音楽」で気持ちがブルーになる音楽を意味することができる。「青い→未熟」、「哲学→意味不明な理念」という連想から、「青い哲学」で青臭いことを言う哲学科の学生を意味することができる。これらすべてのことが、想像力により可能となる。

 ところが、人工知能には想像力がない。そもそも、想像する人工知能をどうやって作ればよいかが分からない(注)。創造は外部に現れるが、想像は心の中に閉じた主観的な体験だから、それを人工知能で実現させることは難しい。人が頭の中で、「青い馬」を想像しているときの脳細胞の状態や細胞間の信号の流れを分析し、それを人工知能でシミュレーションすることはできるかもしれない。だが、シミュレーションをしても、人工知能が想像しているとは想像しがたい。おそらく無機的な材質からなる人工知能やロボットには想像はできない。想像するためには、最低限、人間と同じ種類の生体高分子の集合体からなる身体を持った生命体が必要となる。だから、無機的材質からなる今の人工知能では人との間の溝を埋めることはできない。このことは人工知能が人を凌ぐことができないということを意味するのではない。人工知能はすでに多くの分野で人を凌いでいる。囲碁や将棋でもトップレベルのプロ棋士の技量を凌いでいる。数学の未解決問題たとえばリーマン予想やNP≠P問題を人工知能が解決するという日がいずれ訪れるだろう。それでも、人間の方が上手にできるという分野が残るに違いない。そして、その鍵を握るのが想像という特異な機能なのだ。だが、人はなぜ想像することができるのか、この問いには今のところ答えることができない。想像は主観的な体験であるから、この謎を解くことは極めて困難な課題だと予想される。
(注)想像しているかどうかを、外部から、どうやって判断するのか?人工知能が想像していないということを、どうやって証明するのか?こういう原理的な問題が残っている。だから人工知能は想像できないという本稿の主張には同意できないという異論があるだろう。想像という機能は、自然界に生きる生命体が、自然環境への適応、言い換えると自然淘汰の過程で獲得してきたものと推測される。それゆえ今の人工知能のように無機的材質からなり、自然淘汰の可能性がない無生命体では、想像という機能は、実現不可能と考えられる。但し、これは証明ではなく憶測にすぎない。これらの残された課題については別の機会に論じる。


(H28/11/18記)


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