☆ 科学的説明の限界 ☆

井出 薫

 「なぜ宇宙は存在するのか」、この問いに科学は答えることができない。宇宙が存在することを所与の現実として、その宇宙がどのような構造を持ち、どのように進化してきたかを説明することができるだけだ。これに対して、物理学の究極理論(超弦理論が候補の一つ)が完成したら宇宙が存在する理由を説明できるようになると言う者がいる。だが、これは正しくない。究極理論はあらゆる物理現象を説明することができるかもしれないが、宇宙の存在を含めて物理現象そのものが存在する理由を説明することはできない。たとえ、できるとしても、「では、なぜ究極理論が成り立つのか」という問いには答えられない。数学的に整合な理論は究極理論だけだ、などという答えがあるかもしれないが、それならば、「なぜ数学的に整合である必要があるのか」という問いが生じる。だから、必ずどこかで、「それが事実だ。それを説明することはできない。」として説明を終わらせる必要がある。

 物理学は、幾何学的あるいは解析学的な数理モデルを用いて自然現象を説明する。それは非常に強力だが、数理モデルが有効な理由は説明できない。やはり、「それは事実なのだ」と言うしかない。科学的な説明は万能ではなく、科学を成立させる枠組みそのものは、事実として認めるか、(不適切である可能性がある)方法論として認めるしかない。そこに、より深い根拠や説明を求めても、答えは得られない。

 哲学でよく話題になる「心はなぜあるのか」という問題も同じ性格を持つ。心と呼ばれる現象(注)があることは誰もが認め、それは様々な研究の対象となる。しかし、「なぜ、心があるのか」という問いには、それが事実だとしか答えようがない。心と脳の関係などは、心を所与の存在として考えることで初めて理解することができるのであって、脳が分かれば心と脳の関係が分かる訳ではない。「原子分子の集合体(である人間)がなぜ痛みや悲しみを感じるのか」という問題も同じで、事実として認めるしかない。原子分子あるいは細胞を幾ら研究しても、そこに心を見出すことはできない。細胞のネットワークという次元に進むことで、心に近づくことができるかもしれないが、ネットワークも物理的なシステムに過ぎず、やはりそこに心はない。そして、どこまで行っても、心が物理学的システムの中に姿を現すことはない。
(注)「心」という概念は曖昧で、無意識的な働き(意識せず手足を動かす、忘れていたことを思い出すまでの無意識の心的活動、など)を心に含める場合と、専ら意識的な心的活動だけを心に含める場合がある。どちらであるかが曖昧なまま議論が進むことがあり注意を要する。但し、本論では、このような議論を意識する必要はない。

 心に関する議論では、しばしば哲学的ゾンビなる存在が話題にされる。それは、人間と全く同じように振る舞うが心はないという存在を意味する。はたして、そのような存在があるのかどうかは分からない。だが、あるとして、普通の人間と哲学的ゾンビを見分けることができるだろうか。哲学的ゾンビは、「君には心があるか」と質問されれば、人間と全く同じに振る舞うのだから、「当たり前だろう。あるに決まっている。」と答える。だから質問するだけでは見分けることはできない。では内部を調べれば分かるだろうか。人間の脳神経系に該当する部位が半導体だったら、心はなく哲学的ゾンビだと判断することができるだろうか。できない。心を担う媒体が人間と異なるかどうかで、哲学的ゾンビか否かを決めるのであれば、それは「人間だけが心を持つ」と最初から定義をしているのと同じことになる。哲学的ゾンビという概念は、人間と全く同じ細胞と細胞のネットワークを持ちながら心が無い存在、逆に全く違う媒体(シリコンなど)からなるにも拘わらず心がある存在、このような存在があり得るかどうかを議論することに、その狙いがある。だから、人間と同じ脳神経系を持つかどうかを、哲学的ゾンビであるか否かの判断には使えない。それは前提ではなく、結論として見い出されるべき事項なのだ。それでは、脳神経系の有無を除いて、哲学的ゾンビかどうかを見分ける術があるだろうか。おそらく無い。それゆえ、哲学的ゾンビを見分ける方法、及びに哲学的ゾンビが存在し得るかどうかという問題は、科学では答えることができない問題と考えてよい。

 このように科学では説明できない問いがたくさんあり、その中には、本稿で論じたように無意味とは言えない問いが多数含まれている。しかしながら、これは科学に限界があることを意味しているのではない。科学的な枠組みの中で、これからも科学は進歩し、それと関連した技術が次々と開発されていく。だが、科学的な枠組み、たとえば先に挙げた物理学における幾何学的・解析学的枠組みのようなものだけでは、世界を汲みつくすことはできない。そして、そこに、哲学の存在意義がある。


(H28/10/29記)


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