井出 薫
安倍政権の経済政策、通称アベノミクスは、精密な経済モデルに基づくものではないが、マクロ経済学が応用されている。その政策は金融緩和により年率2、3%程度の緩やかなインフレを起こし持続的な経済成長が可能になるとするリフレ派の経済理論に基づいている。 アベノミクスは、企業の利益増加、失業率の改善、(僅かだが)賃金の上昇をもたらし、ある程度の成果を挙げている。しかし、成功したとは言い難い。成功しなかった原因として、世界経済の不安定化、消費税の引き上げが挙げられる。だが、それだけが原因とは思えない。グローバル市場の下では一国だけの経済政策では成果は限定的となるとは言え、欧米各国も金融緩和を行っており、もっとアベノミクスが成果を挙げてもおかしくない。消費税率引き上げの影響もここまで長引くとは考えられない。そうなると、政策を導いた経済理論自身が間違っていたのではないかという疑念が浮かぶ。 だが、そうとは思えない。金融緩和は金利を下げ、企業は資金が借りやすくなる。投資先がないから金利が下がっても企業は資金を借りないと指摘する者がいるが、金利が下がればリスクが受け容れやすくなり投資増加が理論的に想定される。ディープラーニングなどの技術により飛躍的な進化が期待されるAI分野、クリスパーキャスナインで飛躍的に進化した遺伝子編集技術とその応用分野、など投資先はたくさんある。インフレ期待は貯蓄よりも支出を消費者に促す。金融緩和を永遠に続けることはできないからどこかで金融引締め(出口戦略)が必要となるがそれが難しい、目標インフレ率を超えて高インフレとなりそれを制御することが困難になるというリスクがあるとは言え、リフレ派の理論は間違っているとは言えない。では、なぜ上手く行かないのか。 経済学とは、自然科学のように現象を説明したり予測したりする学ではなく、寧ろ説得のための技術というべきだ。「金利が下がっている。企業は今こそ投資をすべきだ。」、「インフレが予想される。預金金利は極めて低い。貯蓄するより消費すべきだ。」アベノミクスは企業や消費者にこういうメッセージを発信する。そして、そのメッセージ自体は不合理ではない。問題は、このメッセージが人々を説得することに成功していないということだ。企業は投資を渋り、消費者は消費に慎重だ。だから景気が思うように上向かない。 その理由は色々ある。政府が信頼されていない。高齢者はインフレになっても収入増が期待出来ないからインフレを嫌う。福祉や社会保障の後退で市民はいざと言うときのために貯蓄に励み消費を控える。預金金利の低さが気になる者は貯蓄を株などの有価証券や投資信託などに回すから消費増には繋がらない。企業は失敗を恐れて成長が見込まれる分野なのに投資しない。たとえば、こう言った理由だ。これらを克服しないと景気は上向かない。 経済学を経済政策に応用する際には、経済学が持つ「説得の技術」という性格を十分に考慮し、経済モデルから答えを導き出すだけではなく、説得力が増す環境を作り出す必要がある。実際、首相や日銀総裁は自信満々の態度を示すことで、説得力を増そうとした。アベノミクスの初期段階では、それが成功したかに見える局面もあった。だが自信満々の演説や答弁だけでは限界がある。市民はそれほどお人よしではない。 大事なことは、政治家や日銀が信頼されること、人々が明るい未来を展望できるようになることだ。だが、いずれも容易ではない。ただ、いずれにしろ経済学の性格をよく理解したうえで、経済モデルを展開し、それを応用する必要があることは間違いない。 了
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