☆ 言葉の意味、哲学、工学、社会学 ☆

井出 薫

 言葉が単なる空疎な記号でないことは言うまでもない。物理的には全く異質な存在であるにも拘わらず、紙に書かれた「リンゴ」も、話し言葉の「リンゴ」も、コンピュータのディスプレイ上に示された「リンゴ」も、同じものを意味することができる。だから、記号「リンゴ」は、何かを意味している。この「何か」が何か?が問題となる。

 実在する「リンゴ」を意味するというのが一つの答え。だが、リンゴがないところで、私たちは「リンゴが欲しい」と言うことがある。そのときは何を意味しているのだろう。「心に浮かぶリンゴの印象」が意味するものだという考えがある。しかし、ウィトゲンシュタインは、そのような考えは根拠がないと指摘する。そのような印象を持つことなく、リンゴという言葉を使用することができるし、「リンゴ」と言うとき、そのような印象が心に浮かんでいることを意識することはない。さらに私たちは「リンゴ」で全く異質なものを意味することができる。たとえば、「リンゴ」がトレードマークでスマートフォン「アイフォン」などでお馴染みアップル社を「リンゴ」と呼ぶことがある。「リンゴの新製品、どう?」などと言って会話をしている場面にしばしば出くわす。このリンゴは果物の一種「リンゴ」ではなく、アップル社を意味している。そこで、ウィトゲンシュタインは「言葉の意味を知りたければ、その言葉がどのように使用されているのか調べる必要がある」と指摘する。そして、言葉(の記号表現)とその意味内容(記号内容)を分離して、両者の間に対応関係があるという思想は根拠がないと警告する。感覚で捉えられる「言葉」(の表現)は何かその外部にあるもの(あるいは心の中にあるもの)を意味しているのではない。言葉はどう使用されているかにより意味が異なってくる。アップル社を意味する「リンゴ」という言葉は、それが使用される場面により、アップル社を意味することが可能となる。ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という言葉でそれを表現する。そして、言語ゲームでは、使用方法が変わることで、自在に同じ言葉でも意味が変わる。それゆえ言葉の本質的な「意味なる者」は存在しない。

 ウィトゲンシュタインの考えは魅力的で説得力もある。(言葉を含む)記号の表現と内容の関係の恣意性を強調するソシュールの思想にも通じるところがある。おそらく哲学的にはウィトゲンシュタインの考えは正しい。だが、人工知能を研究する者はウィトゲンシュタインの考えでは満足しない。研究者の目標は、人間の言語ゲームに参加できる人工知能やロボットの開発にある。そのためには、言葉を何らかの対象物(目の前にあるリンゴやリンゴの概念)と対応付ける方法を開発しなくてはならない。思弁的な哲学では、言葉の意味を言語ゲームに解消することができるが、人工知能やロボットなどという工学の世界、リアルな物を扱う世界では、意味を言語ゲームに解消する訳にはいかない。言葉の表現を現実の何かと対応させる方法の発見(発明?)が欠かせないのだ。哲学の世界でもウィトゲンシュタインの答えでは満足しない者が多いが、現実的な課題にウィトゲンシュタインの思想だけでは解答を与えられないからだと考えることもできる。

 こうして、哲学の世界で言語ゲームに解消された「言葉の意味」は、物の世界、工学の世界で再び、その本質(何らかの対応物)が探究される存在となった。しかし、ウィトゲンシュタインが言語ゲームで指摘しているとおり、その対応は恣意的で状況により目まぐるしく変化する。だから汎用的な人工知能やロボットの開発は極めて難しい。ディープラーニングで人工知能は目覚ましい進化を遂げたと言われる。しかし人間並みのロボットにはほど遠い。また、ディープラーニングで人間並みあるいはそれを超える知的なロボットを生み出したとしたら、その成功の鍵は、意味の本質を発見し明確なアルゴリズムを構築して課題解決するというよりも、試行錯誤を繰り返して前進するというその手法に拠るものだということになる。そこでは、言葉の意味を知ることなく試行錯誤で課題解決が図られていることになる。それはある意味でウィトゲンシュタイン的状況と言えるだろう。

 社会学ではまた状況が変わってくる。社会学では、言葉を通じて社会がどのように形成され、どのように変化するかを解明することが重要な課題となる。そこでは、社会学者がそれを意識しているどうかは別にして、(対応物としての)言葉の意味より言語ゲームの実際がどのようになっているかが重要となる。

 このように、言葉の意味への問いの解答は、それがどのような場面で問われているかに依存する。哲学、工学、社会学で「言葉の意味とは何か」という問いへの答えは違ってくる。そのことが忘却されることで、意味の問題はこれまで必要以上に紛糾してきた。だが、哲学、工学、社会学はそれぞれ独立した領域ではなく相互に関連していることも忘れてはならない。言葉の意味の問題を通じて、哲学は工学や社会学に貢献でき、工学は哲学や社会学に貢献できる。また社会学は哲学や工学に貢献できる。それゆえ、時には空疎に見える意味の問題は常に重要な問題として存在する。


(H28/9/18記)


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