井出 薫
「正義を為すことが幸福だ」とソクラテスは教える。漱石の「こころ」では、好きになった女性と結婚するために友人を裏切った先生が描かれる。友人は自殺し先生は恋人と結婚することができたが幸福ではなかった。不正義は幸福をもたらさない。とは言え、正義と幸福は違う。正義を為して不幸になることはある。会社の不正を暴いたところ、周囲から疎まれ冷遇されたなどという話しはよくある。政府の政策が正しくないと考えてデモやストライキをして職を失う者もいる。彼と彼女は正義を為したから幸福だとは限らない。家族や友人から「理想論だけでは世間は渡れない」と諌められ、後悔する者もいるだろう。そもそも正義はなすべき義務を果たすことであり、幸福は心地よさであるから、両者は性格が異なる。ただ両者が合致することは少なくないというだけのことだ。また、正義は理性との関わりが強く、幸福は感情との関わりが強い。理性と感情は密接に関係があるとはいえ、やはり性格が異なる。 それゆえ、法の制定や運用、政治において、正義を重視するか、幸福を重視するかで違いが出てくる。また動物の権利に関する考え方でも大きな違いが生まれる。 功利主義者ベンサムは、全ての法は自由の侵害であり、法が正当化されるのはただ人々の幸福を増進する時だけだと主張した。だからベンサムにとって被害者のいない犯罪は存在しない。犯罪の加害者は罰せられ幸福を損なうが、誰もそれで幸福になる者はいないからだ。つまり全体の幸福度が下がるから、被害者なき犯罪を認めるような法は正当化されない。一方、正義を重視するカントは、正義をなすために結果を考慮してはならないと警告する。自分が幸福になるかどうか、他人が幸福になるかどうか、結果を考慮して為すべき行動を決めてはならない。法廷で偽証することで関係者全員が幸福になり、他の者には何の影響を与えないとしても、偽証は許されない。たとえ真実を語ることで多くの者が不幸になったとしても、真実を語ることが人としての義務だとカントは主張する。だから、たとえ自分ないしは他人の幸福のためだとしても、カント的立場では偽証罪は正当化される。 動物の扱いを考えるときにも大きな違いが生じる。ベンサムは、理性があるか、話す事ができるかではなく、苦痛を感じるということが重要であると考える。動物は(人間のように高度に分節化された)言葉を話すことはできない。しかし苦痛は感じるに違いない(厳密な証明はできないが)。だから動物にも当然に人間と同じように苦痛を避ける権利が認められる。これがベンサムの考えだ。20世紀、動物の解放を強く主張した哲学者シンガーは、基本的に功利主義的な立場をとっている。動物にも生きる権利、苦痛を避ける権利があるという思想は、幸福を重視する立場からは自然に導き出される。一方、カント的な立場からは動物の権利論が出てくる。カントでは専ら人間に認められる道徳的主体性あるいは人格概念を生の主体としての動物に拡大することで動物の権利を認めようとするもので、トム・レーガンなどが代表者とされる。しかし、この立場はかなり苦しい。正義という概念を人間以外の動物に帰属させることは根本的に無理がある。人間には残酷と思える行為(たとえば、オスのライオンがメスの子供を殺し、両者がその後つがいになるなど)を動物は遂行する。正義という概念は専ら人間に関わるものと考えた方が自然だ。幸福も人間の幸福と動物のそれとでは違う。「こころ」の先生のように自らの行為が正義に反すると悩み後悔し、せっかく恋した相手と結ばれたのに不幸になるということは動物では考えられない。だが、それでも苦痛や快楽という次元で考えれば人間も人間以外の動物も大差はない。それゆえ動物の権利を擁護するという意味では、幸福を重視する方が無理なく議論が展開できる。正義を重視するカント的立場では、(人間的な意味での)理性的存在とは言い難い人間以外の動物の権利を認めることの根拠は薄い。実際、カントは動物の権利には否定的だった。 幸福も正義もともに大切であることは言うまでもない。だが、筆者は必ずしも功利主義に与する者ではないが、現代においては幸福を正義より重視するべきではないかと考える。たとえば戦争の是非を考えるとき、理性や正義を重視するとどうしても「正義の戦争があり得る」という立場がでてきてしまう。寧ろ「理屈抜きで、戦場で人を殺したり、殺されたりするのは嫌だ。平和な社会で幸福に暮らしたい。」という普通の市民の普通の感覚こそが、戦争を放棄し平和への道を開くのではないだろうか。そして人々の連帯とは理性に基づくものと言うよりも、むしろ感情、他者への愛情に基づくものだと考える。感情が破壊的な行為を導かないよう制御するために理性は欠かせないが、理性は感情を上回るものではない。 了
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