☆ 学とモデル・道具 ☆

井出 薫

 経済学と物理学には似たところがある。どちらも数学を駆使して現象を説明する。そのため、以前、経済学など社会科学全てを物理学に還元して説明しようとする物理主義などという立場もあった。だがもちろん、物理主義が成り立たないことは容易に分かる。貨幣には様々な形態がある。貴金属、銀行券、通帳の数字、電子化されたデータなど、その形態は様々で、今では電子化されたデータが貨幣の主流となっている。日本のマネーストックは1200兆円などと言われるが、紙幣や硬貨は100兆円に満たず、大多数の貨幣(通貨)は電子データとしてコンピュータネットワークの中に存在する。しかし、物理学は、貨幣がこのような様々な形態をとる理由を説明できないし、どのような貨幣形態が将来現れるかも予想できない。物理学のモデルや使用する数学を、経済学の研究に援用することはできるが、類推の域を超えない。物理学の対象と経済学の対象は異なる。より一般的に、自然科学の対象と社会科学の対象とは根本的に異なる。

 金塊が1キログラムであるということと、金塊が100万円で売れるということとは性質が全く異なる。1キログラムと100万円の間には偶然的な一致しかなく、1キログラムの金塊が110万円になることもある。市場では同じ物でも常に価格が変動している。

 だが、質量と価格ではどこが違うのであろうか。質量は物自体に備わる性質であり、価格は社会的な関係性の中で決まる性質であり、その物自体に備わる性質ではないという考えがある。だが質量も実は対象となる物自体に備わる性質ではなく、他の物質や時空との相互作用の産物であり、物自体の固有の性質ではない。もし空虚な宇宙でたった一つの物体しかなければ、その物体に質量は存在しない。それゆえ、関係性にだけ着目したのでは、社会的な性質である価格と、自然的な性質である質量とを区別することはできない。さらに質量という概念はあくまでも人間が対象を理解するための(その対象とは解消できない差異を持つ)モデル・道具(注)に過ぎず、自然そのものに内在する実体ではない。物理学が宇宙全体から素粒子まであらゆる領域で成立する法則を探究する普遍的な学問であるとしても、物理学が見い出す原理や法則は自然そのものではなく、また自然に内在する実体でもなく、あくまでも自然を認識するためのモデル・道具でしかない。
(注)「モデル・道具」とは、私たちの認識が認識の対象そのものではなく、その対象とは解消できない差異を持つモデルであり、またそのモデルを世界との関わりで道具として使用することを表現する。私たちの認識がモデル・道具であり、対象とは解消できない差異を持つということは、決して物自体は認識できないという(カント的な)立場を取ることではない。物自体はモデル・道具として認識される。但し、机と私たちの認識としての机とは異なる。両者の間には決して埋めることができない差異がある。存在と思惟を同一化することはできない。そのことをモデル・道具という言葉で表現している。また、このことは観念論的な立場を取ることではない。モデル・道具は自由に設定できるものではなく、対象との相互作用により制約される。そのことを積極的に認めることでモデル・道具論は寧ろ唯物論的な立場を取ることになる。

 だとすると、物理学と経済学の差異、その背景となる自然と社会の差異とは何かを理解することは容易なことではなくなる。私たちの認識がモデル・道具であるとしたならば、社会と自然の差異はどこにその根拠を持つのであろうか。私たちの認識の中では、それはモデル・道具の活用の仕方に根拠を求めるしかない。価格は人間の意思で変えることができる。また価格は人間が存在しない場所ではその意味はなくなる。一方、物の状態を変えることなく質量を変えることはできない。単位「キログラム」は社会的に決まる恣意的な規約だが、質量は単位を変更しない限りその量が変わることはない。その意味で、物理学が研究対象とする性質は客観的な性格を有すると言ってよい。つまりモデル・道具の使い方に関する制約が、経済学と物理学では異なる。そこに社会と自然との差異を見ることができる。そして、このような差異は決して観念的、恣意的なものではなく、対象そのものの差異によると考えるしかない。

 しかし、ここに難問がある。何故この世界に自然と社会という二つの世界が見い出されるのか。そして、この問題は身体という物質と心との関係、所謂心身問題と関連している。質量には自然的性質があるが、価格にはない。価格は人がそれを価格として意識し使用することではじめて価格足りえる。そして価格のような性質が現れる場を私たちは社会と呼んでいる。だから、自然と社会の関係という問題は、身体と心の関係という問題と密接に関わっている。

 では、自然と社会、身体と心という二元論的な性格がなぜ現れるのだろうか。この問いには、それを説明するという遣り方では決して答えることはできない。二種類のモデル・道具を使うように、私たち人間は宿命づけられていると言うしかない。世界そのものと二元論的なモデル・道具がどのような対応をしているのか、世界が二元論的であるからモデル・道具が二元論的になるのか、そうではないのか、それに答えることはできない。それはただ認めるしかない。そして、それを認めることで、私たちの世界認識の実相が見えてくる。そして経済学と物理学、社会と自然、身体と心の関係性を解明する手がかりが得られる。私たちは、どうしても、「なぜ、なぜ」と問い続けたくなるが、どこかでそれを事実として認めるしかない場所に至る。それがここなのだ。そしてそれを認めることは、決して不可知論や観念論を認めることを意味しない。寧ろ、人間は世界に埋め込まれておりその中でのみ思考し探究することができるという唯物論的な立場(あるいは唯名論的な立場と言うべきか)を認めることになる。(但し、本稿での議論は観念論や不可知論を論駁するものではない。観念論や不可知論が成り立つ余地は常に存在し続ける。)


(H28/8/14記)


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