☆ 相対主義の可能性 ☆

井出 薫

 確実なもの、絶対的な真理はあるだろうか。徹底した相対主義者ならば、「絶対的な真理など存在しない」と主張する。その主張そのものを相対主義者は絶対化しているというのが相対主義へのいつもの反論だが、屁理屈にすぎない。世界はすべからく言葉からなるとするならば、この相対主義批判は妥当なものとなるが、世界は言葉で出来ている訳ではない。精々のところ、人間の認識が言葉を核として組立られているというに過ぎない。世界は言葉に還元されることはない。だから、相対主義者の「絶対的な真理は存在しない」という主張は十分に意味がある。それがどうしてもパラドックスに聞こえると言うのであれば、相対主義者の主張を「世界は言葉では表現しきれない。部分的にも表現しきれない。」と言い換えてもよい。こうすればパラドックスは回避される。

 しかし、本当に確実なものは存在しないだろうか。もし、そうだとすると私たちの知は土台を欠き極めて不安定なものとなる。たとえば数学の公理が確実ではないとすると、数学全体の正しさが疑わしくなる。しかし証明済の数学体系は信頼できるものであり、実際、現代社会を支えている。私たちは数学の適用方法や計算を間違えることはあるが、数学そのものに裏切られることはない。だとすると数学の公理(及びその体系)は確実なものと言ってもよいと考えられる。

 だが数学の確実性は何に基づくのだろうか。数学とは規約であり、あらゆる定理はすでに論理的に公理と演繹規則に予め含意されているという考えがある。これは若かりし頃のウィトゲンシュタインや論理実証主義が採用した考えだ。これが本当だとすると、数学とはトートロジーに過ぎず、本質的に知を拡大するものではないことになる。数学の確実性とは「xと決めたからxなのだ」という類の論理に帰着する。しかし、そうだとすると数学は確実なものとは言い難くなる。人には規約を変える自由があるからだ。「確実なもの」には、人間の恣意では自由にできないという含みがある。恣意的に変更できるようなものは確実なものとは言えない。私たちが確実なものと言うのは、人間の意志では自由にできないものを意味しているからだ。

 しかし数学は単なる規約とは考え難い。数学の新しい定理の発見やポアンカレ予想のような難問の証明は驚きに満ちており、規約に還元できるようなものではない。公理から導出できる定理はごくわずかで、それぞれの分野で主題毎に個別の研究がなされている。それでは、規約ではないとすれば、数学が確実な真理である根拠があるのだろうか。あるとすればどこにあるのか。そして確実ということに間違いないのだろうか。もしそうだとすれば、数学は確実なもの、絶対的な真理と言えることになる。規約ではなければ、それは人の意思を超えたものと考えることができるからだ。しかしこれは極めて難しい問題になる。数学とは何に関する真理なのかという難問が行く手を阻む。そしてそれについては多数の思想家が様々な議論を展開したが結論は出ていない。

 それゆえ、数学の確実性は多く人々が信じているが、それは無意味であるか、根拠が明らかになっていない状態にあると言わなくてはならない。つまり、今のところ数学を絶対的な真理、確実なものと断定する根拠はない。

 数学以外に何か確実なものがあるだろうか。デカルトは疑っている私(考える我)は確実だとした。だが「私」が確実に思えるのは、私に限られる。私はいつか消える。だがその後も世界は継続する。それゆえ、この私はいま、ここでは確実だとしても知の基盤とはなりえない。ヘーゲルのように「私」を普遍化して「私たち」にしても、人類を超えて世界が存在することは間違いないし、「私」と「私たち」の間には他者問題(他者が私と同じような存在であることをどうやって知ることができるのか)が立ちはだかる。フッサールは、「意識としての生」を土台として現象学を展開するが、意識もまた私に属するものとして立ち現われており、また意識がそこに私が存在する世界から多様な影響を受けていることから、確実なものとは言えない。このあたりの事情はハイデガーが実存を世界内存在として捉えることで明らかにしている。ハイデガーはフッサールの現象学から多くを学んだが、フッサールの目論見であった確実なるものを見出すという戦略は見込みのないものであることを明らかにしたと言える。

 このように、現在のところ、「確実なもの、絶対的な真理」は見いだされていない。しかし、このことは徹底した相対主義者が正しいことを意味しない。なぜなら「確実なもの」が見いだせないという主張と、「確実なもの」は存在しないという主張は違うからだ。もし両者を同一視するならば、それは世界が言葉に還元されることを暗黙の前提とすることであり、相対主義批判「相対主義者はその主張そのものを絶対化する」が的中することを意味し、相対主義は無意味となる。つまり徹底的な相対主義の正しさは証明されていない。

 数学のように確実だとみなしてよいものが存在することは確かで、その一方で絶対確実と証明されたものはない。この状況をどう評価し、どのような態度を取ればよいのか難しいところだが、柔軟な相対主義が最も妥当な思想だと言ってよい。つまり中庸が推奨される。おそらく将来もこの状況は変わることはない。それゆえ、私たちは謙虚で寛容で、かつ合理的な思考と行動つまり啓蒙の重要性を理解することが大切となる。


(H28/8/7記)


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