☆ 調整のメカニズム ☆

井出 薫

 社会には様々な敵対する勢力や利害が反する勢力が存在する。市場競争が激烈な資本主義社会では特にそれが著しい。また、同じ勢力内でも政策が矛盾することもよくある。このような場合、様々な調整がなされる必要がある。時には大規模な闘争になることもあるが、通常は、技術的で平和的な手法で調整がなされる。

 たとえば、資本主義社会では、賃金水準が大きな問題となる。資本家(または企業)は、利益を大きくするために賃金を抑えようとする。賃金を抑えることで商品の価格と販売数が変わらない限り利益が上がるからだ。だが、賃金を抑えることで、市場に豊かな購買者がいないために商品が売れないというジレンマに襲われる。豊かな市場という観点からは、寧ろ資本家にとって賃金を上げる方が利益も大きくなる。この矛盾した要求はどのように解決されるのであろうか。マルクスは短期的には調整に成功しても長期的には調整は不可能になり資本主義は崩壊すると考えた。

 資本家は競争しているから、競争相手よりも優位に立っているという確信がない限り、賃金は上げない。賃金を上げれば利益が減るか、商品価格が競争相手よりも高くなり売れなくなるか、いずれかになるからだ。特に膨大な数の競争相手が市場に存在する場合には、賃上げは難しくなる。だが、寡占化が進む、あるいは商品の差別化に成功すると、この課題は解決が可能となる。市場での優位を背景に賃金を上げることができる。賃金の上昇で従業員の労働意欲は高まるから生産面でも有利になる。また独占的な地位を有すれば賃金上昇分を価格に転嫁することも容易になる。従業員との円滑な関係は経営者にとっても好ましいことなので、賃上げが可能であれば経営者は賃上げに傾く。さらに、優秀な人材を集めるためにも賃金引き上げが有効となる。そして優秀な人材が集まることで、さらに新たな差別化が可能となる。多くの業種で、このような寡占化又は(商品の差別化による)企業の序列化が進み、労働者全体でも賃金が上がり生活は豊かになる。実際、マルクスの時代以降、先進国では賃金は上昇し、労働者の生活環境は改善され市場も活性化した。つまり賃金における矛盾は、寡占あるいは商品の差別化それに基づく企業の序列化が進むことで解消されると言ってよい。勿論、労働組合や政府の介入も、この過程で重要な役割を担う。

 労働者の生活が改善されると、労働組合と資本家(企業)との対立も解消の方向へと向かう。豊かになった労働者は企業との対立を避けるようになり、労使対立という意識よりも競合他社への対抗心の方が強くなる。その結果、労使協調路線が強まり、資本対労働という矛盾する契機を有する両者の対立は緩和される。そして、事実、このような対立や矛盾の緩和や解消で、資本主義は発展して生き残ってきた。戦後の日本が正にそうで、スト権ストの時期(75年)を境にして、労働運動は、急進的な労使対決路線から労使協調路線へと転換している。そして、同時期、大都市圏を中心とした革新自治体が終焉を迎えている。

 資本主義のこの調整能力は、どこまで機能するのだろうか。まず、この調整機能は自由主義者が期待するような市場の自動的な調整機能に基づくものではないことに注意する必要がある。競合する企業あるいは異業種の企業が協調して賃上げを実施するなどということは、法制度、労働組合の圧力や政府の介入など政治的な働きが介在しない限り、一般的にはありえない。つまり、政治や法、さらにはそれを支える思想や文化という機構が存在しないと、経済分野における調整機能が円滑に働くことはない。市場はそれ自身では空疎で無力な仮想的なシステムに過ぎず、政治権力や文化など諸制度を介することで初めて実体的な存在へと昇華する。マルクスは、生産力に規定された生産関係が現実的、物質的な土台(下部構造)であり、政治、法、イデオロギー諸形態などは生産関係に規定された上部構造でしかないと論じた。しかし、生産力と生産関係は、すでにそこに様々な諸制度つまり上部構造に属するとされる要件を含んでおり、そのことによって生産力は生産力となり、生産関係は生産関係となる。労働力の所有者である労働者と、土地を含む様々な生産手段があれば、自動的にそれが生産力に、生産力の諸要素の関係体としての生産関係になるのではない。そこに、政治や法、思想や宗教、文化などが介在して、実効性のある土台としての生産関係及び生産力が初めて成立する。そのことは、マルクス自身が資本論の中で論じている「価値形態論」(注)などで明らかになっている。貨幣は経済を媒介する存在であるが、それは一つの政治的又は文化的な制度として存在する。貨幣はそれを信認する何らかの権威を必要とし、政治的あるいは文化的な信認があって初めて貨幣となりえる。また、資本論においては、封建制から資本制への移行は、本源的蓄積として把握されているが、本源的蓄積は経済学的なメカニズムで実現されるのではなく、経済外的強制により実現されるとされている。そしてそれは正しい。つまり資本主義体制は、政治的な対立や文化の変容を通じて実現されるものであり、生産力の発展により自動的に創設されるものではない。
(注)マルクスは、資本論の冒頭で労働価値説を提示し、次いで「価値形態論」を展開する。価値形態論は、市場経済という無政府主義的な生産活動が如何にして社会全体を支えることが可能になるかを明らかにするものだと言ってよい。そして、その議論から、貨幣という存在の必然性が明らかになる。貨幣が存在することで初めて、市場は経済活動を活性化し社会を支える存在となる。一方、貨幣は政治権力による強制や文化的伝統(貴金属への愛着など)が存在して初めて貨幣となりえる。つまり貨幣は純粋な経済学的存在ではない。

 このように、社会的矛盾の調整の形態は様々であり、封建制から資本制への移行のように、経済的なシステム内での調整ではなく、それを超えた政治的あるいは文化的闘争により調整が行われることもある。いや、寧ろ、ほとんどすべての革命は経済外的強制により実現されると言ってよい。マルクスが主張するように生産力と生産関係が歴史を決定する最重要要素だとしても、歴史的な変革(大規模な社会的調整)は、政治や法、イデオロギーの領域での大規模な調整を通じて実現される。(注)
(注)このことは、マルクス自身がその著「経済学批判」の序言で明らかにしている。なお日々のコミュニケーションにおける対立の調整など、経済領域外でも絶え間ない調整が行われている。しかし本論では経済的な領域についてのみ論じ、その他の領域については議論しない。

 それゆえ、現代の資本主義では、経済外的強制による調整なしで、どこまで市場経済における内部的な調整で経済学的課題が解決できるかが問題となる。21世紀に入ってからの経済の動きをみると、資本主義の限界が現れているようにも思える。だが、19世紀以降、絶えず、資本主義の崩壊と終焉が予言されながら、それが存続してきた事実を考慮すると、資本主義は簡単には崩壊しないと予測しておくべきだろう。この先も、システム内部での調整を繰り返しながら半永久的に存続していくとも考えられる。いずれにしろ、資本主義を単純な階級対立のシステムと捉えるのではなく、複雑な対立と調整のシステムと捉えてその存在を解明する必要がある。それにより資本主義がどこまで社会的諸課題を解決する能力を有するか、そして資本主義を超えるシステムが存在しうるかを明らかにすることができるだろう。


(H28/7/10記)


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