☆ 真理とは何か ☆

井出 薫

 真理とは何か。数理論理学的には、通常は命題とそれが表現する事態が合致していることを意味する。「机の上に猫がいる」が真であるとは、事実、「机の上に猫がいる状態」を意味する。このように、命題と事態が合致するとその命題は真になる。

 しかし「彼は彼女を愛している」が真とはどのような事態を指すのであろうか。彼が「彼女を愛している」という心の状態を持っていることを意味しているのだろうか。しかし「心」とは何で、どこにあるのかが分からない。それゆえ、身体とは異なる霊魂の存在を想定しないのであれば、心の状態は何らかの形で脳の状態に還元されると考えるしかない(注)。それでは、「彼女を愛している」に対応する脳状態とは何だろう。脳科学の専門家が該当する脳状態を発見したとしよう。そして、それを基にして、彼が彼女を愛しているという命題は真実ではない、つまり脳状態「彼女を愛している」を彼が有していないことが分かったとしよう。だが彼はそれに激しく抗議し、彼女を誰よりも愛していると主張する。そして彼女、および彼の家族や友人もまた日頃の彼の彼女への態度から、愛していることは間違いないと証言する。しかし、それでも脳科学者は、彼の脳状態から「彼は彼女を愛している」は偽であると主張する。さて、このような場合、どちらが正しいだろうか。彼が正しいと考える者がほとんどだろう。そもそも「彼女を愛している」を示す特定の脳の状態が発見されるとは考えにくい。「彼が彼女を愛している」は、彼の脳の状態ではなく、彼の振る舞いや眼差し、それを見守る周囲の人々の意見により決まる。しかし、そうなると、真理を事態との一致と捉える立場は維持できない。真理は環境の中で決まる。だがそれでは、どのように決まるのか。
(注)心という存在については様々な議論があり、心の状態を脳の状態とする意見には異論が多い。しかし、霊魂の存在を想定しない限り、脳の活動が心を生み出すと考えるしかない。本論では、その意味で、心の状態を脳の状態として捉える。

 そこから、真理とは、それが語る事態との合致ではなく、真偽が問題となっている命題と他の命題との関係において決まるという考えが生まれる。「彼は彼女を愛している」は、「彼は彼女にいつも優しく接している」、「彼は、彼女の話しをするときほど嬉しそうな顔を見せることは他にはない」、「彼は彼女が危機に陥った時、自ら命の危険を顧みず身を挺して彼女を守った」などの命題と並存しているときに、真理だと言える。逆に、「彼は、彼女が病気で苦しんでいたとき、それを知っていたにも拘わらず、別の女と長期に亘って旅行をしていた」ということであれば、「彼は彼女を愛している」は真理とは認められない。そのような振る舞いは「愛している」という表現に相応しくない。それゆえ、ここから真理の整合説が浮かび上がる。真理の整合説では、ある命題が、他の命題群との間で整合しているとき(矛盾しておらず、かつ、他の命題が該当の命題の証拠となりえるとき)、真理だとする。しかしながら、数学や論理学を除く諸学問や日常的な事例では、特定の命題が他の命題と整合しているかどうかを確証することは事実上不可能で、真理の整合説も、真理の意味を解明するものだとは言えない。

 「彼は彼女を愛している」は真偽を問うことが無意味な命題なのだという意見があるかもしれない。しかし、彼が「彼女を愛している」と言いながら、彼女が病気で苦しんでいるときに少しも助けようとせず、自らの享楽にふけっているような場合、「彼は彼女を愛している」は端的に偽だと言うことができる。それゆえ、この命題は真理という概念が適用できない事例だとは言えない。但し、それは最初の例「机の上に猫がいる」のように、事態との合致で真偽が決まるものではない。整合説は適用可能だが、整合説でも十分とは言えない。この命題の真理性を問うことは意味があるが、真理の意味は「机の上に猫がいる」の命題ほどの自明性を持つものではなく、もっと曖昧な形での真理を意味する。

 ここから、真理という概念の家族的類似性を導き出すことができる。家族的類似性とは本サイトでもしばしば引用するウィトゲンシュタインの後期の主著「哲学的探究」などで使用される観点で、「「どこか似ている」、但し「共有される本質などはない」」ということを意味する。例としてゲームを考えてみよう。野球とサッカーはボールを使うが、将棋やチェスはボールを使わない。だがどちらもゲームという言葉が使われる。この4つのゲームはいずれも勝敗を争うが、ゲームは勝敗を争うとは限らない。ソリティアのような一人で遊ぶゲームもある。また恋愛などもしばしばゲームとして表現されるが、これもまた勝ち負けには関係がない。経済学で多用されるゲーム理論のゲームも勝敗を争うものとは言えない。参加人数もゲームによってさまざまで、決まった数はない。ゲームのプレイヤーが積極的にゲームに参加している場合もあれば、外部からゲームとして捉えられているに過ぎない場合もある。経済学や生態学などでゲームの理論が応用される時には、その対象の振る舞いは、第三者の視点からゲームとして把握されるだけで、当事者にはゲームをしている感覚はない。特に下等な微生物や植物の群集にゲームの理論を適用する場合は、完全に第三者の視点におけるゲームでしかない。このように多様なゲームには共通の性質、本質などはない。しかし、それでもどこか似ているということから「ゲーム」という共通の名称が使用される。それをウィトゲンシュタインは家族的類似性と表現した。「真理」にも家族的類似性の観点が応用できる。「真理」には様々な使用法があり、共通の本質はないが、それぞれどこか似たところがあり、真理という言葉が広く使用される。その例が、ここで論じている「机の上に猫がいる」と「彼は彼女を愛している」で、どちらも、それが真理であるかどうかを問うことができるが、そこで語られる「真理」は真理の本質を共有している訳ではなく、ただ、ある種の家族的類似性が見い出されるに過ぎないと言えよう。

 このように、真理とはゲームと同じように、ただ家族的類似性が見い出されるだけの概念で、共有すべき本質などはないと言えるだろう。だが「真理」という言葉は「ゲーム」とは異なり、もっと深いものがあると誰もが感じる。それは、哲学や論理学、数学や物理学などで「真理」という言葉が極めて崇高な地位を有する者として扱われるという慣習によるものに過ぎないのかもしれない。だが、私たちが「真理」という言葉に特別な意味を与えるには何か理由があるように思える。ハイデガーは、真理を、命題と事態の合致や命題間の整合あるいは実用主義的な観点からの解釈ではなく、全く異なる観点から捉える。ハイデガーにおいては、真理とは存在が開示されることを意味する。いま、窓がない部屋に私がいるとしよう。外は見えない。ただ室温計があり、温度を示す数値がどんどんと下がっている。私は、外では雪が降っているのではないかと思い、戸を開ける。すると雪景色が一面に広がっている。存在が開示され、雪が降っているという真理が私の前に現れる。それを私の予測「雪が降っている」と事実の一致として捉える必要はない。私が何も予想せずに戸を開けたとしても、そこに雪景色が広がっていることに変わりはないからだ。真理は一面では主観的なもの=「私にとって」という形式を取るが、その一方で、客観的な側面を有する。予測をしようがしまいが、戸を開ければ雪景色に私は包まれることになる。

 こうして、ハイデガーの世界内存在(つまり現存在としての人)とそれが迎える存在の開示としての真理という新しい立場が現れる。これはここで論じた様々な真理に関わる難問を解消することに繋がるのではないだろうか。ハイデガーの議論は抽象的で曖昧で、しばしば放恣に至るが、それでも、私たちが特別な意味を持たせて語る「真理」について極めて重要な視点を与えている。但し、それで全ての問題に決着がついたわけではない。


(H28/6/26記)


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