☆ 反証可能性 ☆

井出 薫

 カール・ポパーは科学理論の基準は反証可能性にあると論じる。アインシュタインの一般相対論は、光が重力で曲がることはないことが実験で証明されれば、間違っていることになる。幸い、日食時の観測で確かに光が重力で曲がることが立証され、一般相対論は否定されていない。ただし、ポパーによると、将来の実験や観測で一般相対論を否定する結果が発見される可能性は常に残されており、一般相対論は暫定的な真理であるに留まるとされる。だが、たとえそうであっても、このようにアインシュタインの一般相対論は反証可能であるからこそ、科学的理論と言えるとポパーは考える。逆に言えば、およそ科学と称する限りは、それは反証可能、これこれの事実が発見されれば、その理論は間違っていることが証明されるというような事例が存在するものでないとならない。反証可能性がない理論は科学ではない。ポパーはそう主張する。

 たとえば、マルクスの革命理論は反証可能ではない。世界は共産主義革命により共産主義社会に移行するというのがマルクスの革命理論だが、実現していない。しかし、マルクスの革命理論は反証された訳ではない。マルクスはいつ革命が起きるとは予測しておらず、将来必然的に共産主義革命が起きると言っているだけだからだ。共産主義革命は一部の国でしか起こっておらず、しかもそのほとんどは失敗に終わったという歴史的事実を突き付けても、教条的なマルクス主義者はそれを認めない。マルクスは「いつか起きる」と主張しただけで、いつまでに起きるかを予測はしていない。だからどのような事実を突き付けても、マルクスの革命理論を否定することはできない。つまりマルクスの革命理論は反証可能ではない。フロイトの精神分析も同じと言える。フロイトは、自分の分析が被験者の同意を得られれば、そのことを以て自らの分析を正当化する。しかし被験者が否定しても、そのときには、否定しようという無意識の働きがそこに存在する証拠だとして、自説の正しさを主張する。それゆえ、どのような結果になっても、フロイトの精神分析を否定することはできない。つまりフロイトの精神分析は反証可能ではない。このような反証可能性の欠如を理由に、マルクスやフロイトの理論は科学の名には値しないとポパーは主張する。

 ポパーの主張には多くの難点がある。反証可能性が存在するかどうかはすぐには分からない。確かにマルクスの革命理論や歴史理論は反証可能ではないかもしれない。しかしマルクスの最大の業績である「資本論」は反証可能ではないとは断言できない。資本論が反証可能かどうかは、「反証」をどう捉えるかによる。反証の概念を狭くとれば、多くの人文科学や社会科学の理論は反証可能ではなく、科学の名に値しないということになる。たとえばマックス・ウェーバーの「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」で展開されている資本主義の発展史分析は、どのように反証すればよいのか明らかではなく、おそらくどのような批判を持ち出しても、それを巧みに切り抜けて、その正当性を主張し続けることができるだろう。だがそのことを以て、ウェーバーの理論は科学ではないと断定してよいのだろうか。その他にも、知識の全体性を考慮した批判などもある。クーンのパラダイム論もポパーの反証可能性を以て科学の基準とする説とは明確な差異を有する。なぜなら、パラダイムが変わると理論の性質が変わり、何が反例となるかが変わってくるからだ。

 ポパーの反証理論は魅力的ではあるが、科学の基準としては不完全と言わなくてはならない。だが、それでもポパーの主張には大きな意義がある。なぜなら、それは次のことを含意するからだ。「人が、ある理論Aを科学であると主張したいならば、理論Aはそれに対する批判に開かれたものでなくてはならない。」これは寛容の精神を推奨し、同時に、健全な懐疑精神と批判精神を育むために欠かせない。これまで幾度となく、科学を僭称する怪しげな理論が社会を混乱に陥れてきた。こういう事態を避けるためにも、ポパーの反証可能性の議論を適宜参照することには極めて大きな意義がある。


(H28/5/29記)


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