井出 薫
その著「存在と時間」で、ハイデガーは「存在とは何か」、これが哲学の第一の問題だと語っている。しかし晩年、ハイデガーは哲学の限界を感じ、哲学はサイバネティクスにその座を譲ったと考えるようになる。だが、ハイデガーの晩年の諦観が正しいか否かは別としても、「存在」ほど身近で、それでいて謎に満ちた者はない。存在は全ての始まりで、存在するから哲学する。デカルトは全てを疑っても、っている自分の存在は疑えないと考えた。デカルトの議論は難点が多いが「存在」が始まりであることは間違いない。ウィトゲンシュタインも「世界の在り方が神秘なのではなく、世界が存在することそのものが神秘なのだ」と語っている。 ハイデガーにとって、存在は存在者と異なる。存在者とは、存在(在る)をどのように了解するかで、その性格が変わってくる。月や太陽と重力方程式は違う。だが、どちらも「存在する」と言える。では、どう違うのだろう。月や太陽は視覚でその実在を確かめることができるが、重力方程式は見ることはできない。論文や教科書に記された重力方程式を読むことはできるが、それは重力方程式の本質ではない。それは様々な重力現象をそこから説明し、予測することができることにその本質がある。つまり重力方程式は月や太陽のように見えるもの(見える物体)ではない。また月や太陽は重力方程式に従って運動するが、重力方程式そのものは重力方程式に従うものではなく、数学や論理学に従う。このように、月や太陽のような物体と重力方程式のような理論的存在とは明確に異なる存在性格を有する。 では、電子など素粒子はどうだろう。それは月や太陽と同種の存在(物体)なのか、それとも重力方程式のような理論的存在なのだろうか。電子は重力方程式や電磁方程式に従って運動する。それゆえ、その観点では、物体だと言ってよい。だが電子は見ることができない。電子の通過した痕跡を写真などで見ることはできるが、電子そのものを見ることはできない。そもそも写真上の電子の軌跡とされるものは理論的な構成物に過ぎず、物体の痕跡を直接的に示すものではない。電子は如何なる感覚でも直接的に感じ取ることはできない。その意味では、電子は重力方程式と同種の理論的な存在だということになる。 どちらが正しいかを決めることは難しい。では、電子は物体であり、同時に理論的な存在物であると考えることはできないだろうか。できる。だがそうすると、感覚で捉えられる存在(物体)と理論的存在以外に、第3の存在があることになる。 さて、存在は多くともこの3種類で尽きると言えるだろうか。言えない。感覚、たとえば痛みとはどういう存在だろう。3種類のいずれにも該当しない。文学や神話に登場する架空の人物や生物もこの3種類のいずれにも合致しない。理論的な存在に近いが普遍性を有する重力方程式などとは明らかにその存在性格が異なるからだ。そもそも、いま文章を書いている「この私」はどういう存在だろう。単なる物体ではないことは間違いないが、どのような存在性格を有するかを明確に論じることはできそうもない。 こうして考えていくと、「存在」には無数の種類があると思えてくる。だが、無数あるという証拠はない。また、そもそもここで展開している議論が、存在と存在者をいつの間にか混同し迷路に陥っていると指摘することもできる。ここでの議論が「存在」を分類することではなく「存在者」を分類しているに過ぎないと言うこともできるからだ。また、そもそも「存在とは何か」と問うこと自体が無意味なのだと主張することもできる。 「存在」とか「存在者」は、「変数x」と同じで、それ自体には何の意味もなく、その言葉が使用されている状況によってその性格が決まると考えるのが一番妥当かもしれない。電子を物体とみるか、理論的存在とみるかは、どのような文脈で電子を論じているかによる。素粒子反応の結果検出されると予想される電子の観測を試みる実験物理学者には電子は物体として思念される。電子の量子理論を学んでいる学生には理論的存在と解釈される。状況を指定しないと存在や存在者を議論することはできない。こういう風に考える。確かに、哲学を言葉の分析だとするならば、それでよいだろう。だが「存在とは何か」と問う時、私たちは言葉を超える何かに向かっている。だから「存在とは何か」という問いを言語分析に還元させることには抵抗感がある。そしてその抵抗感があるからこそ、この問いは問うに値すると感じられる。 「存在とは何か」という問いは、このように、問いそのものが如何なる意味を持つか、いかなる状況で意味を持つかを定めるところからすでに困難に直面している。ここに哲学固有の難しさがある。また、同時に哲学の面白さもあると言える。おそらくこの面白さが感じられないと哲学を学ぶことは難しいと思われる。 了
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