☆ 知能、倫理 ☆

井出 薫

 人間の知能は、計算、パターン認識、概念の形成と使用、自律的な学習からなると言ってよい。ちなみに、カントの理性批判と対比すると、パターン認識は感性と構想力、計算は悟性、概念形成の使用及び学習は理性と対応させることができる。これらの機能全てが計算に還元できるという立場(たとえば「脳=チューリングマシン」とする立場など)があるが、ここでは、その是非は問わない。

 近頃話題のディープラーニングが凄いのは、これまでコンピュータが苦手とするとされていたパターン認識、概念形成・使用、自律的な学習が人間並みにできるようになったことだ。計算は従来からコンピュータが人間の遥か上を行く。だから、この3つができるようになったことで、知能という面では、コンピュータは人間に追いついたと言ってよい。確かに、数学や物理学の未解決問題(リーマン予想、全ての相互作用を統一する究極理論など)をコンピュータが解くことができるようになったわけではない。小説を書くコンピュータもまだ登場していない。だが、現在の人工知能技術でこれらの課題を解決することは十分可能だと考えて間違いない。どのような知的業績も、計算、パターン認識、概念形成・使用、学習の組み合わせと考えることができるからだ。尤も作家が自らの情念を題材に作品を作ることができるのに対して、情念を持たないコンピュータがその点で不利であることは否めない。しかし言葉の集合体を操作する作業の積み重ねである文学は計算、パターン認識、概念形成・使用、学習(校正などの作業を含む)に還元できるから、コンピュータには小説が書けないということにはならない。膨大な小説から読者の支持を得る作品の要素を抽出することで、コンピュータが人間の作家よりも優れた作品を書けるようになる可能性も否定できない。いや、時間は掛かるかもしれないが、いずれそうなる日が来る。音楽や絵画などはより早い時期にコンピュータが人間に追いつき、追い越すだろう。

 コンピュータが知能という面で人間に追いつき、追い越す可能性があることは、倫理を知能水準で測ることはできないことを示唆する。コンピュータが如何に賢くなろうとも、人間と同じ権利を要求することは認められない。殺人は許されないが、人間の都合でコンピュータを停止させること、解体することは許される。コンピュータは倫理的な存在ではない。それゆえ、知能の存在やその水準は倫理の根拠とはならない。

 それでは倫理は何に基づくのだろう。功利主義者ベンサムは「快、不快を感じる能力」に基づくと考えた。そしてベンサムは動物の権利を大幅に認めるように主張した。確かに、私たちは、コンピュータを壊すことよりも動物の生命を奪うことに、より強い嫌悪を感じる。

 しかし動物の権利には限界がある。人間と同等のものを認めることはできない。害獣や害虫は人間の必要に応じ駆除される。必要最小限、かつ苦痛を最小限に留めることを条件として、動物を実験研究に用いることも容認される。快不快の感情の有無は倫理の重要な要件ではあるが、それだけが全てではない。

 一回性、唯一無二性は倫理において決定的な意味を持つ。ある人物の遺伝子を使って、その人物と瓜二つの人間を作り出すことができたとしても、その人物とクローンは別の人格を有する、それぞれ唯一無二の存在、一回限りの生を生きる存在であることに変わりはない。そこにこそ倫理の決定的な意義がある。唯一無二であるから、一回限りであるからこそ、殺人は決して容認されない。そして、そのことが倫理の根源的な根拠となる。

 だが、一回性と唯一無二性は人間に特有なことではなく、他の動物でも同じではないかと言われるであろう。その通りで、ペットとそのクローンは飼い主にとってだけではなく、ペット自身にとっても同じではない。それゆえ、一回性、唯一無二性は人間の他の動物への優位性を根拠付けるものではない。

 先に、知能は倫理を根拠付けるものではないと論じた。しかし、一回性、唯一無二性が人間の倫理的優位の究極的な根拠ではないとすると、知能を持つことがその根拠の一要件となる可能性が甦る。人間の倫理的優位性は、一回性、唯一無二性を土台として、快不快を感じる存在であり、かつ知的な存在(高度な知能を持つ存在)であることに基づくと考えることで正当化されることになる。

 だが問題はそこにあるのではない。コンピュータが高速で正確な計算ができるだけの存在に留まっていた時代には、このような論理で人間の倫理的優位性を主張することができた。しかし生命性を持たず、それゆえ一回性も唯一無二性も有しないコンピュータが人間と同等の知能を持つに至った現在、もはや人間は他の動物に対して倫理的な優位性を主張することはできない。なぜなら知能とは機械的な機能に過ぎないことになるからだ。コンピュータにおいてはハードウェアとソフトウェアは明確に分離でき、その知的能力はソフトウェアに属する。コンピュータとのアナロジーで、人間の知能(ソフトウェア)も生命性(ハードウェア)から切り離せる。人間の知能の場合、コンピュータと異なり、その物質的存在様式が知能と密接に関連しているにしても、論理的に知能を独立して考察できる以上、それがどんなに精巧なものでも倫理の根拠にはなりえない。知能は一回性と唯一無二性を有しないコンピュータと共通のもので生命性と関わりがないからだ。

 ここにこそ現代社会の倫理の根源的な問題がある。知能を倫理の根拠から排除すれば、人間は他の動物に対して如何なる権利も持たないことになる。あくまでも知能を根拠として主張するのであれば、コンピュータの権利に配慮が必要となり、また、生命を知能の下に置くことになる。特に後者は、遺伝子操作が進歩した現在、生命を知的操作の対象とすることを正当化する道を開くことになり、倫理的にも、医学的にも、生態学的にも極めて重大な影響をもたらす。果たして私たちはこの隘路から脱出することができるのだろうか。


(H28/4/3記)


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