☆ 知識とは ☆

井出 薫

 私には秘密の部屋があり、膨大な情報がそこには保管されている。その存在を知る者はおらず、そこに入ることができるのは私だけだ。

 あるとき、知人が私に尋ねる。「哲学者のウィトゲンシュタインは、いつ、どこで生まれたか知っているか」と。私は答えられない。だが秘密の部屋で調べればすぐに分かることは知っている。私は知人にトイレに行くと告げ、秘密の部屋に入り調べる。秘密の部屋は何故かいつでも私のすぐそばにあり、いつでも直ちにそこに入ることができる。だが部屋に入ったことも出たことも周囲に知られることはない。すぐに調べ、私は知人に、1889年にウィーンで生まれたと答える。知人は私がウィトゲンシュタインの誕生日と生誕の地を知っていたと考える。では、私はウィトゲンシュタインの生誕の地と誕生日を知っていたと言えるだろうか。

 言えないと誰もが答える。だがこの部屋は私の脳の記憶を司る部位と同じ働きをしていると言えないだろうか。私たちは、よく度忘れをして、あることが思い出せないことがある。「ほら、あのイケメンの哲学者、えっーと、なんていう名前だっけ。あー、思いださない」私はその哲学者の名前を知っていることを知っている。だが名前が出てこない。これは秘密の部屋に入る鍵が見当たらないという状況に等しいのではないだろうか。

 屁理屈だ。そもそもこんな都合がよい部屋があるはずがない、と言われるに違いない。しかし今やモバイルインターネットのお蔭で私たちはすぐに情報を収集することができる。そして私たちはあたかもそれを前から知っていたかのように振る舞うことができる。カンニングではないかと指摘されるかもしれないが、調べ方を知っているからこそ情報を得ることができる。メモ帳に友人の電話番号を記録しておいて、電話するときメモ帳を見る者は「友人の電話番号を知らない」と言うべきなのだろうか。寧ろ、知っていると言うべきではないだろうか。

 知識は脳に格納されているというイメージがあるが誤解を招きやすい。秘密の部屋がそれを示している。知識を実践的に捉えるのであれば、いつでも秘密の部屋に入ることができるのであれば知識があると言ってよい。それで実践上は何も不都合はない。知識は脳に記録された情報とは限らない。

 しかし、だとすると、試験で資料や携帯を持ち込むことを禁止するのは正しいことではない、と言うことにならないだろうか。スマホで回答をネットで探すのも許されるべきなのではないだろうか。私は、モバイルインターネットが普及した現在、一定の条件が満たされるのであれば、試験会場にタブレットやスマホを持ち込み試験の回答のために使ってよいと考える。ただ貧しい者や障がいを持つ者などハンディを背負っている者が不利にならないという条件が欠かせない。現時点では豊かで小さい頃からスマホやタブレットを使いこなし、かつ高価で高機能なそれを所有している裕福な者に有利になると思われるので、認めるべきではないということになろう。


(H28/3/13記)


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