☆ 信念と真理 ☆

井出 薫

 pであると信じることと、pであることは異なる。私が「フランスの首都はロンドンである」と信じていても、フランスの首都がロンドンになるわけではない。信念と真理は一致するとは限らない。だが、そもそも真理とは何だろう。

 エネルギー保存則は物理学の基本的な原理で、真理だと言われる。しかしエネルギー保存則が真理であることを何が保証するのだろう。実験結果がそれを証明していると言われることがある。しかし、この世界では無数の物理現象が生起する。実験や測定はホンの一部で、割合からすれば無限小に過ぎない。統計学的に言って、これまで物理学者が行ってきた実験や測定のデータだけでは、エネルギー保存則は証明できない。むしろ何か無くなることは日常茶飯事で、経験的にはエネルギー保存則は成り立たないと言ってよい。私など一日中落し物を探しているが、見つかることは滅多にない。

 一方、理論がエネルギー保存則を保証するという考えがある。最少作用の原理から、物理法則が時間と共に変わることがないと仮定するとエネルギー保存則が導かれる。だから、宇宙が物理法則に従っており、その物理法則が不変的であるとすると、エネルギー保存則は真理であることになる。しかし最少作用の法則が真理であること、宇宙が物理法則に従っていること、物理法則が時間的に不変であることなどを、どうやって証明するのだろう。不可能と言わなくてはならない。物理法則の数学的形式は時間的に不変だが、相互作用の強さを示す定数は時間と共に変化するという考えがあり、その場合、エネルギー保存則は厳密には成立しなくなる。

 pが証明できないということは、pが真ではない(偽である)ということを意味しない。エネルギー保存則はおそらく真理に違いない。だが証明できない以上、それが偽である可能性が否定できず、エネルギー保存則は真理というよりも、物理学を信頼する現代人の信念だと言う方がより正確だ。

 これに対して、自然現象への介入可能性が、エネルギー保存則など物理法則の客観性を擁護するという立場がある。物理法則を使って、人間は様々な道具や機械を使用し、自然界に存在しない物(機械もその一つ)を作り出す。このことを介入可能性と呼び、それが自然法則の客観性、真理性を保証する。このような考え方は、現実的で実証主義的な現代人には説得力がある。だが、この論理も限界がある。目的P(たとえば「橋を作る」)を、理論T(たとえば「力学」)を使って実現することに成功したとする。それはTの正しさ、客観性を保証するだろうか。保証しない。Pが実現したことがTとは全く無関係の要因に基づく可能性は否定できない。またTは間違っており、その結果、100年間は壊れないはずの橋が50年後壊れる可能性も否定できない。

 このように(人間の経験や知識、意志を超えた)真理が存在しないとは言えないが、人間の世界では真理と信念の区別は相対的と言わざるを得ない。エネルギー保存則など物理法則は現代人の信念に過ぎず、真理か?、真理と言うことに意味があるか?、私たちには確かめる術がない。

 現代人は信仰心が薄く、神や仏を信じない。信じないどころか、信じる者を馬鹿にする傾向がある。しかし科学も近代化・合理化された一つの信仰に過ぎない。核戦争が始まり人類滅亡の危機に瀕したら、現代人は何をするだろう。多くの者が、神や仏に祈り、罪の許しを請うに違いない。


(H28/2/28記)


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