☆ 法としての貨幣、記号としての貨幣 ☆

井出 薫

 ゼロ金利やマイナス金利など四半世紀前だったら考えられなかった。金利がマイナスになれば貨幣への信頼は失われハイパーインフレが起きると思われていた。

 ところが、マイナス金利が実施されても、ハイパーインフレは起きず、むしろそれでもデフレ脱却に各国とも苦労している。マイナス金利と言っても中央銀行と市中銀行との間の話しで、一般市民の預金金利がマイナスになった訳ではない。だがマイナスになる可能性はあり、またすでに限りなくゼロ金利に近づいている。時代の経過で、貨幣の存在意義が変わったのだろうか。

 貨幣には価値尺度と流通手段、価値貯蔵の三つの機能があると言われる。しかし貨幣の電子化、ネットワークが進みつまりバーチャル化すること(=記号化すること)で価値尺度機能と貯蔵機能はほとんど失われた。ただ流通手段という機能だけが残っている。それにより貨幣の記号化は益々進行する。それを情報化社会と言ってもよい。情報化社会では、無数の金融商品が登場する。それは記号としての貨幣、資本主義体制に生きる人々の宿命である(富の象徴としての)貨幣への過剰な欲望が生み出す必然だと言ってよい。記号だから幾らでも組み合わせを変えることで新金融商品が作れる。そしてそれを人々は購入する。リーマンショックが発生し金融自由化に歯止めを掛けるべきだという議論が世界で巻き起こったが、あっという間に姿を消した。金融自由化を反転させることはできない。そのためには人間と貨幣を根本的に変化させなくてはならないが、現時点では実現することはできない。

 だが、そもそも貨幣に価値尺度という機能などあったのか、それは幻想に過ぎなかったのではないだろうか。西洋では古代ギリシャ時代から、貨幣は貴金属でそれ自体価値があるものだった。だからマルクスも貨幣の本質的な形態は金など貴金属だと考えた。マルクスは、「資本論」の価値形態論で、最初商品交換の質的側面に着目し量的側面(労働価値説に基づく労働時間)を捨象して論理を展開する。だがすぐに商品価値つまり貨幣により尺度される価値(労働時間)を導入し、議論を集約してしまう。労働生産物として貨幣とは実質的な価値を有するものであり、だからこそ貨幣は価値尺度機能を持ち、そのことにより流通を媒介することができる、こういう論理が展開される。しかし、これは、西洋社会で貨幣が実質貨幣(労働生産物)だったことからくる錯覚にすぎない。中国あるいは日本などでは最初の貨幣は名目貨幣だった。つまり権限を持つ者の命令で貨幣は貨幣となった。金銀など実質的な価値を持つものが貨幣として採用されるのは後代のことであり、最初から価値を持つ物が貨幣という役割を担っていたのではない。そこでは貨幣は本質的に流通手段でしかなかった。ただ象徴的に価値を尺度しているにすぎなかった。それでもそれは貨幣として機能する。その後、金など価値を持つ物が貨幣として流通するようになるが、それは偶然的事象に過ぎず、やがて名目貨幣である紙幣へ、さらに現代ではコンピュータに記録された数字へと変化していく。つまり貨幣の本質は流通手段であり、価値尺度は流通手段が物象化し幻想的に成立したものでしかない。だから現代では貨幣は電子化されたデータとなっており徹底して記号化されている。それは今では数字という記号に過ぎない。

 しかし、貨幣という記号は、全く自由に浮遊する記号ではない。もしそうならば経済は簡単に崩壊してしまう。貨幣とは名目貨幣がそうであるように、法に支えられた記号として存在する。そして法の背後の(現代においては)政府という権力がその価値を支えている。だからこそゼロ金利やマイナス金利が可能となる。マルクスはその著「経済学批判」の序言で、生産力に規定された生産関係が現実的物質的な土台でその上に法的、政治的な諸関係が展開すると語っているが、この構造は法としての貨幣という存在様態により実現する。

 しかし、ゼロ金利やマイナス金利が常態化しているということは、この権力が弱体化していることを意味する。なぜなら、資本主義社会では金利がゼロということは、本来はありえないことだからだ。資本主義社会では、利潤獲得を目的として経済活動が起きる。利潤の一部は利子へ回る(借金をしていない企業でも銀行口座があり、そこで利子を受け取る)。ところが現在の日本がそうであるように、企業は大きな利益を上げ、いわゆる産業資本家の利潤が確保されているにも拘わらず、利子が支払われない。その結果、融資をする銀行の業績が圧迫されてくる。銀行は自ら生産はしないが、経済活動の血液循環とも言うべき貨幣供給の要であり、銀行が軒並み破綻すれば資本主義は崩壊する。それが崩壊しないために、政府が貨幣という本質的に記号に過ぎない空疎なものに信用を与え、その価値を支えている。その力が十分にあれば金利がゼロになるなどということはない。

 利子に該当するものがなくなったわけではない。配当、有価証券や先物の譲渡益などという形で利子に相当する対価が支払われている。だが、これらの形態は、経済循環の血液と言えるこれまでの古典的な貨幣より、はるかに恣意性が高く浮遊する記号として存在する。運用する者は大きな利益を得ることがあるが、破滅することも多い。そして貨幣の貸出を事業とする銀行と違い、そこに介在し事業を営み利益を得ているプレイヤー(証券会社など)は実体性の乏しい幻想的な空間で商取引を実施している。それでも、それもまた信用という形で流通を媒介するという意味で貨幣の一種として存在すると言ってよい。だが、その貨幣は法の力が緩んだ徹底的に記号化された貨幣、記号が記号を自己触媒するような記号としてのみ存在する。貨幣は現代において情報化社会の到来と共に根本的に変容する。

 コンピュータ(人工知能とロボットを含む)とインターネット(あらゆるものを接続するネットワーク)を核とする情報技術が貨幣と結びつき、さらに貨幣が(その記号性が露わになっても、なお)人々が持ち続ける黄金への欲望の対象として拡大していくとき、貨幣がより空疎で浮遊する記号(さまざまな金融商品)へとシフトすることは避けられない。そして、人手だけでは処理しきれないはずの浮遊する貨幣の山が、インターネットと(人工知能へと進化した)コンピュータの登場により処理可能となった。その象徴の一つが、近頃話題になっているFintechという現象だと言ってよい。

 だが、預金ではなく金融商品の運用が、銀行ではなくネット銀行・ネット証券が、世の主流となり、より大きな利益を得るという環境は、資本主義崩壊の序章を意味しているのではないだろうか。確かにすぐに資本主義が崩壊することはない。また何より資本主義に代わる体制が構想できていない。たとえ新しい体制が構想されてもそれを受容できるように人間社会が変化することは容易ではない。しかし、それでも資本主義が終わるか、あるいは大転換を迎えつつある予感はある。変化は金融という領域に留まることではない。環境と資源問題、テロや貧困で現代世界そのものの枠組みが動揺している。そして株価の動きが示す通りこれらの問題が市場に大きな影響を与える。市場経済は多くの利点を持つが、(全てのものがそうであるが)欠陥も多い。貨幣が、政府という権力が弱まり浮遊する記号へとシフトしている現在、市場の欠陥は顕著になっている。金融市場の動揺で世界が右往左往することがその典型的な事例だと言ってよい。貨幣は市場での経済循環の血液であり、貨幣の存在様態と流通体系が市場であると言っても過言ではない。貨幣の変容は市場の変容を引き起こさない訳にはいかない。Fintechにこの流れを変えることを期待する者もいるかもしれないが、むしろ加速する。インターネットと人工知能が作る空間は過剰なほど記号化されたバーチャルなもの、浮遊する記号の世界だからだ。そこでは私たちの(それ自身は決して悪くない)遊び心や創造性(そこには、黄金への欲望もまた存在する。それもそれ自体は悪いものではない。それは生命の活力と繋がっている)が新しい金融商品の登場と普及を後押しする。

 20世紀のソ連・東欧型の共産主義は目指すべき道ではない。しかし、私たちは20世紀そして21世紀に様々な経験を積み重ねてきた。その経験を活かし研究と熟慮と討議を通じ、新しい時代を生み出すことは決して不可能ではない。いや、それなしにはどこかで決定的な壁に突き当たることになる。


(H28/2/12記)


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