☆ 哲学における言葉の問題 ☆

井出 薫

 哲学を本気でやるならば原書を読まなくてはならないとよく言われる。カントの「transzendental」、「transzendent」は、日本語では「超越論的」、「超越的」と訳される。古い翻訳書では「先験論的」、「先験的」と訳されていたが、今では、こちらが使われることが多い。だが「超越論的」と言おうと「先験論的」と言おうと、日本人には、日頃哲学に親しんでいる者以外はピンとこない。と言うか、全くイメージが湧かない者がほとんどだろう。

 ドイツ語を母国語とする者、ドイツ語を習熟し論文などをドイツ語で書くことができる者が、「transzendental」という言葉で考えることや感じることと、(哲学に親しんでいる)日本人が「超越論的」という言葉で考えることや感じることは違うと思われる。それゆえカント哲学を本気で学び、語りたいのであれば、ドイツ語に習熟しドイツ語で考える必要があるという哲学者の意見には一理ある。

 ハイデガーの根源的な思索の対象である「SEIN」にも同じことが当て嵌まる。日本語では「存在」(ときには「有」)と訳される「SEIN」だが、やはりドイツ語を母国語とする者やドイツ語に習熟した者が「SEIN」から受ける印象と、日本人が「存在」から受ける印象はおそらく相当違う。それはバイリンガルの者ならば、おそらく容易に感じ取れることだと思われる。それゆえハイデガーを語りたければドイツ語を学びドイツ語でハイデガーを読まなくては駄目だということになる。ハイデガー自身に尋ねれば、やはりドイツ語で考えろと言うだろう。

 だが、そうすると日本語で西洋哲学を学び語ることには意味が無い、あるいは無いとまでは言えなくても、意義は薄いということなのだろうか。

 私はそうではないと考える。ハイデガーは存在(「SEIN」)と存在者(「SEIENDE」)の存在論的差異「Ontologishe Differenz」)を強調する。「存在」と「存在者」は違う。こんなことを言うと、哲学に慣れ親しんでいない者には屁理屈にしか聞こえないかもしれない。そして、このような思索はドイツ語でしかできないと感じるに違いない。だが、日本語で考えると、そうでもないことが分かる。

 日本語の「存在」には「存在する者」あるいは「存在すること」という(名詞的な)意味と、「在る(あるいは、居る)」という(動詞的な)意味の二つが同居している。「私という存在は特別だ」と言うときの「存在」には「存在する者(存在者)」という意味合いが強く表現されている。一方、「私の存在を忘れないでほしい」と言うときには、「私も「いる」ことを忘れないでほしい」という意味合いが強い。このように、日本語の「存在」にも、「存在(在る)」と「存在者」との存在論的な差異を議論する土台がある。だから、ハイデガーを論じるときには、ドイツ語で考え、ドイツ語で語らないと駄目だということにはならない。

 言葉は恣意的であり、それゆえ、クワインが指摘する翻訳の不確定性が避けられない。つまり、ある言語で書かれた文章(たとえばドイツ語の文章)を他の言語(たとえば日本語)に翻訳するとき、唯一無二の翻訳、正確に同じ意味を再現する翻訳が存在しえないという問題が生じる。翻訳を一つに定めることができるためには、言語の違いを超えドイツ語でも日本語でも変わることのない、普遍的な土台となる理想言語のようなものが存在して、各言語はその理想言語に訳することができると仮定しないとならない。だが、そのような仮定が成り立つとは到底思えない。異なる環境で長い歴史的な変遷を経てきた各民族固有の言語に共通的な土台、理想言語などが存在するとは考えられない(注)。その意味ではドイツ語原書のハイデガーと日本語に訳されたハイデガーとの間には解消できない差異が残る。
(注)チョムスキーの普遍文法が、この共通的な土台になると考える者がいるかもしれない。だが、それはあくまでも統語論(シンタックス)の次元までの話しであり、意味論まで考慮すると、共通の土台など存在しないと言わざるを得ない。意味論は統語論に帰着するという意見もあるが、根拠に乏しい。無限の組み合わせを持つ言語だが、離散的であり、アナログな色彩が強い意味を全て網羅することはできないと思われる。チューリングマシンは確かに連続の濃度を持つ実数を扱うことができるが、意味は数学の計算のような明快な体系を持たず、離散的な言語で全て包含することはできない。たとえ原理的には可能だとしても現実には不可能と言わなくてはならない。またチョムスキーの想定が正しいという確固たる証拠はなく、否定的な研究結果も少なくない。

 だが言葉に恣意性があるがゆえに、対話や討議を通じて母国語を異にする者同士が互いを理解することは可能であり、ドイツ人と日本人がそれぞれの母国語で思索し議論しながら、同じ問いを問うことは不可能なことではない。その際、通訳や翻訳を交えてもよい。このような媒介者を必要とすることは決して致命的なことではない。同じ言葉を母国語とする者同士でも、理解が困難なことは多い。それと変わるところはない。日本語だけを話す者からなる共同体が織り成す言語ゲーム、日本語だけを話す者と日本語だけではなくドイツ語も少し話せる者からなる共同体が織り成す言語ゲーム、日本語だけを話す者と日本語とドイツ語を同じように話せるバイリンガルからなる共同体が織り成す言語ゲーム、日本語だけを話す者、ドイツ語だけを話す者、バイリンガル、この3者からなる共同体での言語ゲーム、これらの言語ゲームには、ウィトゲンシュタインが指摘するとおり、共通の本質などなく、ただ家族的類似性があるだけだ。だが正に家族的類似性があるが故に、そこで緩やかな相互理解が可能であることになる。同じ日本語を話す者の共同体でも、共同体の伝統や慣習、生活様式が異なれば言語ゲームは異なってくる。つまり、言葉が違うということの意味は決して小さくないが、決定的な乗り越えることができない壁ではない。

 確かに、特定の哲学思想を専門とし博士の称号を手にしたい者は、原語で読み、原語で思索し、原語で書くことが欠かせない。しかし、哲学の問いは、存在論にせよ、倫理にせよ、普遍性つまり誰もが関心を持つ問いであるという性質を持つ。それゆえ、言葉の違いを超えて討議をし、相互理解を促進し連帯することが欠かせない。そして事実、言葉の壁を超える相互理解と連帯が至る所で実現されている。言葉の壁は大きいが乗り越え不可能なものではない。そして、それを超える努力が常に求められる。まさしく哲学自身がそれを教えている。(注)
(注)ドイツ人が「SEIN」(という言葉)を話す、聞く、書く、読むときの脳の活動と、日本人が「存在」(という言葉)を話す、聞く、書く、読むときの脳の活動の差異を科学的に研究することは興味深い。そこに哲学の新しい可能性を見出すこともできる。だが、たとえ、そこで決定的な違いが発見されても(されなくても)、なお、哲学的な討議により相互理解を進めることが欠かせない。「違う」(あるいは「同じ」)ことが科学的に証明されて終わりならば、哲学に意味はない。


(H28/1/24記)


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