☆ 語りえぬこと ☆

井出 薫

 「語りえぬことには、沈黙しなくてはならない。」ウィトゲンシュタインは「論考」の末尾をこの箴言で締め括っている。語りえぬことは幾つかあるが倫理もその一つに含まれる。

 カントは「嘘を吐いてはならない」という格率は絶対的なものだと主張した。そこで、倫理学の学習ではしばしば次のような事例が題材として取り上げられる。「あなたはカント主義者であるとする。友人が殺人者に追われてあなたの家に逃げてきた。友人には何の罪もない。そこに殺人者が訪れ、友人が居るかと尋ねる。あなたはどう答えるか。」嘘を吐いてはならないとすると、私は「居る」と答えなければならない。しかしそうすると友人が殺される。さあ、どうする。こんな答え方がある。「友人は半日前、その通りを左側に歩いて行った。」半日前、私の友人は前の道を右側から歩いてきて私の家を訪れた。だから嘘ではない。そして殺人者に「左方向を探すと友人が見つかるかもしれない」という錯覚を与えて追い返すことができる。

 だが、これで嘘を吐かなかったと言えるのだろうか。それに殺人者は錯覚することなく家に居ると推測して押し入ってくる可能性があり、そうなると友人を守ることができない。また、「今、この家の中には居ないのか」と否定的な文で質問されると答えは難しい。嘘を吐かずに確実に友人を守る方法はない。

 そもそも「嘘を吐いてはならない」が絶対的な原則だとしても、「罪のない者を殺人者から守る」という格率も同様に絶対的な原則だ。つまり、この事例は、二つの道徳原則が対立する場合、どうするかという問題に帰着する。ここで、「「嘘を吐くと一人の命を救うことになる」、「嘘を吐かないと、一人の命が失われることになる」、どう考えても前者が正しい判断だ。」と言いたくなる。これは常識で、厳格なカント主義者でも、いやカント自身も、現実にこのような状況に遭遇したら嘘を吐くに決まっている。しかしカントの道徳哲学の原則は「結果を顧慮することなく、正しいことを為せ」であるから、この論理は適用できない。この論理は、カントの道徳哲学(結果を顧慮せず正義をなせ!義務倫理とも言われる)ではなく、カントの道徳哲学と厳しく対立する功利主義(より良い結果をもたらすことを選択せよ!とする倫理)に基づく。それゆえカントの道徳哲学では嘘を吐いて友人を庇うという行為を正当化することはできない。

 それでは、カントの道徳哲学ではなく功利主義を道徳原則とすればよいではないかと思われるかもしれない。しかし話はそう簡単ではない。カントの道徳哲学に難点があるのは事実だが、功利主義にも難点がある。たとえば次のような状況を想像してみよう。「殺人者が生徒10人を人質に小学校に立て籠もっている。殺人者は男Aを逆恨みしており、生徒の解放と引き換えにAを引き渡すことを求めている。Aには何の罪もない。しかし、殺人者は殺気立っており、すぐにAを引き渡さないと生徒10人が殺される。」この場合、Aを引き渡すと、罪のない者1名が殺されることになるが、10名の罪のない生徒たちを守ることができる。一方、Aを引き渡さないと10名の生徒の命が失われる。前者の方が被害は少ないからAを引き渡すことは正当化されるだろうか。ほとんどの者が反対するだろう。罪のない者をむざむざ非道な殺人者の手に渡すことは、私たちの倫理観に反する。この場合、カントの道徳哲学であれば、殺人者の要求を拒否することに何の問題もない。非道な要求を拒否することが正義だからだ。それゆえ、この事例では功利主義よりもカントの道徳哲学に分がある。

 このように倫理に関する問題では、普遍的に妥当する理論を見出すことはできない。功利主義もカントの道徳哲学も、より洗練したものにすることで、より多くの事例に適用できるようにすることは出来る。しかし、それでは煩雑でほとんど役立たないものになる。また、どんなに理論を高度化しても、うまく対処できない事例を考えることが容易に出来てしまう。

 それゆえ、ウィトゲンシュタインが「論考」で語る「倫理は語りえない」とする主張には一定の現実的な根拠があることになる。しかし沈黙することでよいのかという問題は残る。アドルノは、普遍的な理論の不在を認めつつ、むしろ積極的に語るべきだと主張する。ウィトゲンシュタインを高く評価するローティなども哲学の目的は会話を続けることだと考える。一方、ウィトゲンシュタインの思想には、倫理は哲学の問題ではなく実践の問題であるという考えが含まれる。「語りえぬことは示される」という箴言にそれが含意されている。ウィトゲンシュタインは善の存在を決して否定しない。ただ、それを(哲学的に)語ることはできないと言っているだけなのだ。

 目の前の現実の問題と取り組むためには沈黙するだけではすまされない。沈黙することが許されない場合もある。しかし人の生き方として沈黙の重要性を忘れることはできない。無駄に多く語ることが、しばしば誤りや欺瞞、不和や不幸に繋がるからだ。ウィトゲンシュタインの本意もそこにあると思われる。


(H28/1/17記)


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