☆ 資本 ☆

井出 薫

 「資本とは自己増殖する価値体」というのがマルクスの資本の定義だ。これは、生産財とか、バランスシートの資本の部を意味する現代経済学や経営学の考えと大きく異なるように見える。しかし、企業活動がバランスシートの資本を増やすことを目的としていること、資本の増大は生産財の増大に繋がることを考えれば、両者の差はほとんどない。マルクスと現代経済学の違いは、資本をフロー概念として捉えるか、ストック概念として捉えるかの違いに過ぎないと言ってもよい。

 しかし、資本をフロー概念として捉えるか、ストック概念として捉えるかは、資本の分析において違いを生み出す。フロー概念として捉えると資本生産(自己増殖の実現)の過程が分析の主題となる。一方、ストック概念として捉えると、前期と今期、今期と来期の各種指標(財務諸表など)の数値(特にその差)が分析の主題となり、資本生産の過程の分析は疎かになる。現代経済学では資本に関わるフロー概念としては「投資」があるが、投資では、入力と出力(今期の投資額と期待する将来の回収額)が強調され、資本生産の過程は数字の中に埋没する。そのため、マルクスの思想に賛成するか、しないかに関わりなく、マルクスの資本の定義には意義がある。人間は現実世界の現実的な生の過程において存在している。期初・期末の数字などは生の過程においては単なる便宜的な指標に過ぎない。マルクスが、批判者からも一定の敬意が払われているのも、そのためだと言ってよい。

 資本は社会的なシステムの差異から生産される。マルクスは、過去の労働の産物である道具や機械、半製品に新たな労働を加えることで新たな価値が形成され、さらに労働者の労働力の再生産に必要な労働時間(必要労働)を超えて労働者が働くこと(剰余労働)により価値増殖が実現するとした。つまり生産現場での労働力の支出(=労働)のうち剰余労働が資本を可能とする。そして、これが流通過程で貨幣資本という形態で剰余価値へと転換することで資本は現実化する。これは社会的なシステムを労働により絶え間なく差異化していくこと、そこから資本が生まれることを意味している。

 さらに、マルクスは剰余価値生産の方式として、絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産の二つがあると指摘する。絶対的剰余価値生産は、必要労働時間は一定のままで、労働時間を延長することで剰余労働を拡大する方式、相対的剰余価値生産は、必要労働を縮小することで剰余労働を拡大する方式を意味する。いずれの遣り方でも資本は増大する。

 マルクスの分析は示唆に富むが、時代的な制約やマルクス自身の信念(「労働者は抑圧搾取されている。」、「この状態を変えるためには労働者による共産主義革命が欠かせない。」、「共産主義革命は歴史の必然だ。」など)による制約がある。資本は、マルクスの定義のとおり、「増殖」にその根源的な目的と動機があり、労働者の搾取は手段に過ぎない。もし労働者を搾取することなく増殖が可能であれば、資本はその道を取るだろう。社会の多数を占める労働者を敵に回すことは明らかに得策ではないからだ。事実、マルクス「資本論」初版(1867年)が出版されてから150年近く経つが、資本主義は滅んでいない。滅んでいないどころか中国のように共産党が政権を握っている国でも事実上経済システムとして採用されている。少なくとも先進国では、労働者の労働環境や生活環境はマルクスの時代と比較すれば大幅に改善されている。昨今、日本ではブラック企業の問題が大きくクローズアップされているが、これは現代資本主義の正常な姿ではなく、どの時代、どの社会にもある犯罪の一形態に過ぎない。ブラック企業が完全消滅することはないだろうが、一つのブラック企業を見れば、その企業は正常な企業とならない限り長続きはしない。損害賠償など社会的制裁を受け、雇用が確保できなくなり、取引先も失い、いずれ淘汰される。つまり資本生産は労働者の搾取を前提とするものではない。もし資本生産が労働者搾取を前提とするものであれば、表現の自由が認められ、完全な普通選挙が実現している現代、労働者が多数を占めているにも関わらず資本主義が存続している理由が説明できない。低所得者や発展途上国労働者が過剰に搾取されており、先進国の中流階級はその恩恵に与っているというレーニン主義的論理は確かに一考に値するが、説得力に乏しい。国内の低所得者や途上国の労働者の貧困が資本生産の土台であるとすれば、資本生産は極めて脆弱な基盤の上にあることになり資本主義体制が長続きしていることが説明できない。また資本主義体制の下で、かつての日本や韓国を含め、多くの国が貧困から脱したことを説明することも難しい。
(注)このような「資本主義は多くの問題を抱えているが、大体において上手くいっている。」という発想は、資本主義的なイデオロギー(=資本主義的生産様式が生み出す幻想)に過ぎないという批判がある。そして、労働者はそれに幻惑され搾取されていることを忘却しているとされる。このような批判は多くのマルクス主義者からなされる。たとえばアルチュセールはその最も優れた理論家だと言ってよい。だがこのような批判を多くの人々がメディアや図書館で自由に学び、知ることができるにも拘わらず、その批判の支持者が拡がっていないことに、その限界が示されている。「私たちは実は騙されている」式の議論はどのような立派な社会を作り出しても、なくなることはない。そういう議論は面白く、それにより生活の糧を得ることができる評論家とか思想家なる人物が常に存在するからだ。それゆえ、こういう議論は実態に則して吟味することが欠かせない。マルクス主義者たちの批判は当たっているところはあるが、たとえばブラック企業を資本主義の本質だとするような論理の飛躍が多く、正当なものだとは言えない。(詳細は別の機会に論じる。)

 資本生産には様々な方式がある。それは社会システムの差異化には様々な方式があることによる。その方式として、4つの方式を見い出すことができる。時間的差異の創出と活用、地域的・空間的差異の創出と活用、権力関係の差異の創出と活用、情報の差異の創出と活用、この4つの方式だ。

 マルクスの絶対的剰余価値生産つまり労働時間の延長は権力関係の差異の創出と活用の一形態だと言ってよい。ブラック企業のように、被雇用者の弱み(他に良い職場が見つからない、辞めると周囲に迷惑が掛かる、など)に付け込んで利益を確保する遣り方はこの形態の典型と言える。この形態は先に述べたとおり、犯罪がなくならないように、いつの時代にも存続しつづけるだろうが、個々の企業でみれば正常な形態ではなく長続きはしない。また社会の土台にはならない。

 それゆえ、社会の土台となり、経済成長を保証するのは他の3つの差異の創出と活用ということになる。時間的差異の創出は生産性の向上、新製品やサービスの創出などを意味する。ここでは技術革新が大きな役割を果たすが、技術が全てではない。教育や福祉環境の改善、文化の活性化、社会的関係資本の充実などで、特段、画期的な技術進歩がなくとも生産性の向上や新サービスの実現は可能となる。また企業統合又は分割などの経営資源の再配置や市場の拡大などでも生産性の向上や新サービスが促される。時間的差異の創出は、マルクスの相対的剰余価値生産や、シュムペーターがイノベーションと呼ぶものに近く、資本生産の最も洗練された形態であり、この形態が資本生産の核となった時に初めて資本主義は安定すると言ってよい。

 空間的・地域的な差異は、マルクス資本論で商人資本として描かれたものに相当する。マルクスは、商人資本は、安く買って高く売るということに過ぎず、そこには剰余労働が介在せず真の意味での資本生産ではないとする。しかし、都市化、グローバル化した現代世界では、この方式は極めて重要な資本生産の手法となる。国際分業、地域の特産品、賃金や生活費の違い、などの差異は資本生産に有効となる。たとえば工場や営業拠点の海外への移転などはこの活用の事例と言える。それは発展途上国の労働者の利益にも繋がる。但し、この方式は貧困や富の格差の固定化・拡大などを生む危険性も大きい。また途上国の発展や環境汚染などで差異を維持できなくなることも多い。それゆえ、時間的差異のように資本生産の核となることはできない。

 情報の差異は、20世紀後半の情報社会の進展で重要性を増してきた資本生産の方式だ。元々、効率的な生産、流通のためには情報の適切な収集、伝達、処理が欠かせない。しかし20世紀後半に、コンピュータサイエンス(主としてソフトウェア)と半導体技術(主としてハードウェア)の進歩を土台として、放送システム、電気通信ネットワーク、コンピュータネットワークが発展・普及するまで、情報の収集、伝達、処理の効率化は難しかった。しかし、20世紀後半から状況は変化し、情報関連の技術やサービスが社会に普及し、情報を効率的に収集し活用する者、情報を上手に発信する者が市場を制することになる。同時に情報そのものが商品となり流通する。特に環境や資源の限界が明確に意識されるようになった現代、目に見えるような物の生産や消費には限界がある。それゆえデジタルコンテンツのようなものの生産や消費が経済活動の中心にならざるを得なくなっている。それゆえ、将来は、時間的差異と情報の差異の創出が資本生産の核となっていくと予想される。なお情報は、言葉がそうであるように本質的に差異体系(全員が知っていることは情報にはならない、他と違うこと、それを知らない者がいるとき情報になる)で、情報を生み出すとは差異を生み出すことを意味する。それゆえ、情報の差異の創出は情報の創出に等しい。これは、他の3つの方式とは異なる特徴であることに注意をしておく。ここでは議論しないが、情報を論じるときにはこの点を忘れることはできない。

 資本生産には多様な方式がある。それゆえ、「資本主義体制が続く限り、労働者や発展途上国人民は貧困を免れ得ない、格差は拡大せざるを得ない」とする議論は正しいとは言えない。しかし、そのことは資本主義が永遠であるとか、最良のシステムであるということを意味しない。ただ、批判者たちが言うほど悪いシステムではないこと、多くの課題は解決可能であることを意味しているに過ぎない。額に汗して働く者が少ない収入で苦労している一方で、ネットで株式や為替の取引をするだけで莫大な利益を得ている者がいる現状は容認できるものではない。また資本主義が続く限り、こういう不公平が解消されるとは期待できない。現時点では資本主義に代わるシステムは発見されていない。だから資本主義を使い、改良できるところを改良するという遣り方をするしかない。しかし、長期的には別のシステムを構想し実現するべきだ。但し、「資本生産」とは言わないかもしれないが、ここで挙げた4つの方式のうち、権力関係の差異を除いた他の3つの方式は、その未来の社会でも、社会を維持発展させるために欠かせない方式であることに変わりはない。


(H27/12/20記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.