☆ 不思議な時間 ☆

井出 薫

 数学の試験が11月30日午前10時、国語の試験が同11時30分、社会の試験が12月1日午前10時、理科の試験が同午前11時30分、英語の試験が12月2日午前10時だとしよう。今現在、12月1日午前7時、私は昨日、数学、次に国語を受験したことを覚えている。数学と国語の順番を記憶違いすることはない。また、これから、本日、社会、理科の順番で受験し、明日英語を受験することを知っている。ここでも順番を間違えることはない。

 この時間順序を私たちはどのように記憶しているのだろう。「数学:11月30日10時」、「国語:11月30日11時30分」、・・「英語:12月2日10時」というように事象と時刻を対にして記憶しているのだろうか。コンピュータだったら、このような対がデータとしてメモリに記録されている。しかし、人間の場合には、このような事象と時刻の対が記憶されているとは思えない。

 11月30日10時より同11時30分が、時間的に後であることを私たちはどうやって知るのだろう。『年月日の数字が大きいほど、時間的に後である』という命題が脳の中にあれば判定できる。確かに、この命題が真理であることを私たちは知っている。だが、記憶をたどる時、そのような命題を一々参照したりはしない。さらに「時間的に後である」ということの意味をどうやって知るのだろう。さらに、試験の日にち・時刻は忘れたが、数学の試験は国語より先だったことは覚えているということはよくある。時刻と事象の対が脳の中(あるいは心の中)にあるという考えには根拠がない。むしろ私たちの日頃の行動に鑑みるとき、そのような事象・時刻対が記憶されているのではなく、ビデオテープのようなものが脳のなかに存在していると考える方が理に適っているように思える。

 しかし、脳の中にビデオテープが存在するという考えには無理がある。私たちの記憶は断片的で、一連の出来事が全て記憶されている訳ではない。たとえば、友人宅を訪問するために最寄駅で降車し友人宅に到着するまでの間の全事象が記憶に残ることはない。途中でXXビルという看板が視界に入っていたにも拘わらず、そのことをどうやっても思い出せないことなどざらにある。脳の研究からも、短期記憶から長期記憶に移行しなかった事象は少し時間が経過すると想起できなくなることが分かっている。

 こうしてみると、私たちが過去現在未来という時間経過の中で生きているということが実に不思議であることに気が付く。私たちは昨日の一連の出来事を、昨日のこととして、時間を前後することなく思い出す。昨日の出来事を明日のことと取り違えることはない。なぜこのようなことが可能なのか、分からない。コンピュータの記録方式では過去現在未来という時間を理解することはできない。だから、いまのコンピュータには人間のような時間感覚はないと言ってよい。

 時間の中に生きることは人間存在の本質をなす。実際、20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーの主著は「存在と時間」だった。しかし、時間とは何か、時間に生きるとはどのようなことで、どのようにしてそれが可能となるのか、誰も分かっていない。時間については、哲学、物理学、脳科学、情報科学、コンピュータサイエンスなどあらゆる関連学問分野が探究を続けてきた。だが謎は解明されていない。寧ろ、あらゆる学問研究が、時間的存在としての人間を所与の事実として受け容れることで成立していると考えべきだろう。つまり時間の謎が解消されることはない。


(H27/11/29記)


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