井出 薫
「自然という書物は数学で書かれている」とガリレオは語った。ニュートンは自ら微積分という数学を発明して自然の謎を解明し物理学の基礎を築いた。 しかしながら、正確に言えば、自然が数学からなるというのではなく、数学でモデル化できる対象としての自然を解明する学問を物理学と呼ぶ、と言うのが正しい。一見したところ現実の世界とは無関係に思える数学、たとえば非ユークリッド幾何学、多様体、代数幾何学などが物理学で広く利用されることの理由を問われることがある。しかしこれは物理学が数学でモデル化される限りでの自然を対象としていることから、必然的な結果だと言ってよい。物理学にとって数学は基礎的な原理であり、物理学と数学は手を携えて共進化する。 それでは、数学でモデル化できない自然の領域が存在するだろうか。分からない。数学でモデル化できない領域では物理学は通用しない。物理学以上に普遍的であらゆる分野で応用可能な学問は、人間世界には存在しない。哲学は方法に過ぎず、問いは発するが答えは与えられない。それゆえ、物理学で解決不可能な自然に関わる問題には誰も、どのような学問も答えを与えることはできない。それゆえ、自然に数学でモデル化できない領域があるかどうかには答えはない。ただ「心」を自然の一領域と捉えることができるのであれば、「心」は数学ではモデル化できないと言える。心理学では統計データの作成に数学を用いるが、数学は「心」のモデルとはなりえない(脳は数学でモデル化できるかもしれないが)。 さて、自然が数学で書かれているという思想が物理学という強力な学問を生み出したように、社会が数学で書かれていると考えることで物理学に類する強力な学問を生み出すことができるだろうか。一部の経済学者は「できる。それが科学としての経済学だ。」と答える。しかし、この考えはかなり怪しい。数学でモデル化した社会は、現実とは著しく乖離している。企業は単なる財と利益の生産のための機械としてモデル化されるが、現実の企業はもっと生々しい人間ドラマが展開される極めて複雑な組織だ。それを数学で語り尽くすことはできない。人の行動を数学的にモデル化することはできなくはないが、どのようなモデルを構築しても、そこから漏れ出てしまう重要な要素が存在する。数学によるモデル化が不可能な領域として論じた「心」が、組織と組織に属する者の行動に密接な関連を持ってくることがその原因の一つだと言ってよい。ゲームの理論など、様々な数学を持ち出しても、常に真実はその外に逃げ出してしまう。 経済学に数学を応用することは有意義だが限界がある。それは高度な数学を駆使した経済学理論に基づく政策や経営がしばしば失敗に終わることに示されている。それに対しては「対象が自然と比較して複雑だから仕方ない」と言われることがあるが、多細胞生物は企業や国家よりも複雑で、自然が社会より単純だというのは思い込みに過ぎない。 経済学における数学は、理論を簡潔で正確なものにし、データの統計処理に役立つ大変便利な道具だが、物理学のような原理的な結び付きはそこにはない。経済学が解明しようとしている社会は数学では書かれていない。 物理学は、数学を原理として、天文学、化学、生物学、地質学、気象学などあらゆる自然科学の基礎となるが、経済学を他の社会科学の基礎と考えることは出来ない。経済学、社会学、法学など社会科学の諸分野が協力することで初めて経済現象を含む社会現象を理解することができる。経済学は極めて重要な学問だが、それが社会科学の体系において占める地位は、自然科学における物理学が占める地位とは異なる。幾ら数学を駆使しても、このことは変わらない。経済学と経済学者の言説を過信しないためにも、そのことを忘れないようにする必要がある。 了
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