☆ 科学的実在論を擁護できるか ☆

井出 薫

 日本人のノーベル賞受賞で、ニュートリノが話題になっているが、ニュートリノは本当に存在するのだろうか。

 ニュートリノは、電磁相互作用をしないので見ることも、触ることもできない。勿論、聞くことも、味わうことも、嗅ぐこともできない。ニュートリノを知覚することは不可能で、ただ間接的な証拠からニュートリノの存在が理論的に推測されるに過ぎない。

 現代物理学は、量子論、特殊相対論、ゲージ理論を基礎原理とする。ノーベル賞の対象となったスーパーカミオカンデでの観測結果は、これらの基礎原理が正しいことを前提にして得られている。もしこれらの基礎原理が間違っていたら、スーパーカミオカンデで得られた測定データからは、別の解釈がなされ、ニュートリノに質量がある証拠にはならなかった。また、これらの原理が正しいとしても、数学に様々な体系(たとえば、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学など)があるように、別の物理学の体系があり、そこではニュートリノに該当する素粒子が存在していないかもしれない。

 つまり、ニュートリノやその質量は理論的な構成物であり、理論体系が変わればその存在根拠は失われる。だとすると、果たして「ニュートリノ」なるものは本当に存在(実在)すると言えるのか疑問となる。ここで、素粒子などの科学理論に登場する存在者が実在するのか、それとも理論による構築物に過ぎないのかが議論になる。これは科学哲学における最大の問題の一つで、実在するという立場を(科学的)実在論、理論的構築物に過ぎず実在しない(あるいは実在する、しないという議論は意味がない)という立場を反実在論と呼ぶ。トーマス・クーンが「科学革命の構造」で提唱したパラダイム論なども反実在論の一種と言ってよい。パラダイムが古典物理学から現代物理学に転換したことで、質量などの概念は一変し、その前後で連続性はないというのがクーンの主張だからだ。

 科学への信頼が厚い現代人は、そのほとんどが実在論を擁護するだろう。筆者も擁護する。だが、どうすれば擁護できるかとなると難しい。月や太陽の実在は自明だと言える。それが実在しないと言うのは、(哲学的には、そのように考えることができるにしても)余りにも馬鹿げているからだ。しかし知覚できないニュートリノの存在を自明だとは言えない。ニュートリノは理論的構築物であり実在するものではないという主張を一概に馬鹿げていると退ける訳には行かない。実際、将来、物理学の原理が大きく修正され、現在「ニュートリノ」と呼ばれている素粒子は実在せず、全く別の素粒子と場がそこに介在していたことが判明するということはありえる(筆者はそのようなことはないと予想するが)。

 では、反実在論を反駁し、実在論を擁護することはできないのだろうか。そうでもない。反実在論には「実在するとは知覚されることだ」という暗黙の前提がある。そのことは20世紀前半に活躍したイギリスの哲学者ムーアが指摘している。だが、この前提は正しくない。人間は人工衛星を発明するまで月の裏側を見ることはできなかった。もし人間に人工衛星を発明する能力がなかったとしたら、月の裏側を知覚することは永遠に不可能だった。しかし、だからと言って、月の裏側は実在しないとは言えない。知覚できることと実在することとは同じではない。ブラックホールの内側は知覚することはできないが、実在すると考えてよい。それゆえ、反実在論の前提は崩れる。

 但し、この議論は、極端な反実在論を否定する根拠にはなるが、反実在論一般を否定する根拠にはならない。「ニュートリノは実在しない」と断言する反実在論には、上に示す議論で十分な反論をすることができる。しかし、「「ニュートリノが実在するか、しないか」という議論は無意味だ。「実在」という言葉をどう使用するかで、この問いには肯定的にも、否定的にも答えることができる。それゆえ、実在論と極端な反実在論は共に無意味だ。」というタイプの反実在論には、上の議論では反論になっていない。なぜなら、上の議論は、「実在しない」と断言する根拠はないことを示しているにすぎず、実在することを証明している訳ではないからだ。知覚できなくても実在すると考えるべきものの例として、ブラックホールの内側を挙げたが、ブラックホールの内側の実在が証明されているとは言えない。またそもそもブラックホール自体が直接観測することが出来ず、ニュートリノと同様に理論から構築される間接的な存在に留まっている。月の裏側は確かに実在すると言えるが、それは人工衛星を作ることができれば知覚できるのだから実在すると言えるのであり、ニュートリノやブラックホールとは異なる。後者は原理的に知覚不可能で、実在性について議論することは意味がない。こういう主張を展開する反実在論を論破することは難しい。

 ここで、マルクス主義者流に「人間の科学的認識は日々進歩していく、今は知覚できない存在もやがて徐々にその姿が露わになってくる。何より重要なことは科学的認識に基づき、私たちが対象に介入することができることだ。そして、その介入によりその対象を変化させることができれば、その対象は実在すると言ってよい。」という風な議論をすることはできる。しかし、この主張も、科学的認識や技術が進歩することを物語るだけで、実在論の正しさを証明するものではない。なぜなら科学や技術が幾ら進歩しても、私たちの行動や思考に影響を与えるには何かしら知覚されるものへと変換される必要があるからだ。それゆえ、知覚を超えた実在を語ることに意味があることを論証している訳ではない。つまり、科学的認識や技術の進歩は実在論の正しさを強く印象付けるが、証明するものではない。

 結局のところ、科学的実在論が擁護できるか否かは、ある意味で信念の問題となる。筆者を含めて多くの者が科学的実在論、ここではニュートリノの実在を信じている。しかし、それを証明することはできない。ただ科学技術の進歩は科学的実在論の信憑性を高めていると主張することは無意味ではない。だがそれ以上先に進むことはできそうもない。


(H27/10/11記)


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