☆ 価値形態論 ☆

井出 薫

 マルクス「資本論」の最初に、労働価値説に続いて登場するのが、いわゆる(貨幣の解明を目指す)価値形態論だ。旧ソ連の正統派哲学者などの思想に繋がる伝統的なマルクス主義では、価値形態論は貨幣の必要性を証明するためのものであり、さほど重視はされていない。資本論を論じる際、力点は労働価値説から資本論の核である剰余価値説への展開に置かれ、価値形態論は媒介者的な地位に留まる。この伝統的なマルクス主義を教条的と批判した宇野弘蔵なども労働価値説と剰余価値理論こそが資本論の根幹をなすと考える点では伝統的マルクス主義と変わりはなかった。

 この流れが、60年代後半くらいから変わり始め、廣松渉、今村仁司、柄谷行人、岩井克人などが、労働価値説と剰余価値理論ではなく、価値形態論に注目して議論するようになる。柄谷行人の「マルクスその可能性の中心」(講談社、1978)は、マルクスの可能性を価値形態論にみるものだった。

 価値形態論は、「20エレのリンネル=1着の上着」(「20エレのリンネルは1着の上着に値する」と読む)という等式は、「1着の上着=20エレのリンネル」ではないというところから始まる。売り手にとって、20エレのリンネルは商品価値、1着の上着は使用価値を表す。両者は商品が有する価値の二重性を示すものであり、同一ではない(注)。それゆえ、この等式においては、A=Bは、B=Aを含意しない。これは重さ(g)を長さ(m)で表現しようとするようなものであり、矛盾している。マルクスはそこでAを相対的価値形態、Bを等価形態と呼び両者を区別する。
(注)「価値」は商品価値とか、交換価値とも呼ばれるもので、労働価値説においては、商品を生産するために必要とされる社会的平均労働時間に相当する。この「価値」の現象形態が交換価値として現れる。交換価値とは貨幣形態においては価格として表示される。ここで、労働価値説を採用しないのであれば、価値と交換価値を分ける必要はなく、さらには価値と価格もほぼ同じことを意味することになる。だがマルクスは労働価値説を資本論の体系に欠かせない原理と考えているから(そうしないと剰余価値理論がでてこないから)、価値と交換価値は分けて考える必要がある。ただ、マルクスは別の箇所で、商品の価値とは、そこに内蔵されている何かではなく、人と人の関係が呪物化したものであると論じている。それゆえマルクスは矛盾していると言えなくもない。価値の呪物性を、価値形態論を通じて解釈すると、本論の結論である貨幣の記号性が自ずと明らかになり、貨幣は貴金属である必要はなく(西洋史では貴金属である時期もあったが)、本質的に記号であることが明らかになる。

 価値を使用価値で表現するという、重さ=長さに対比されるような矛盾を解消するにはどうしたらよいだろうか。マルクスはまず展開された価値形態を示す。A=B、A=C、A=D、・・・・これで現実的には交換の可能性が高まるが、矛盾は残されたままになっている。そこでマルクスはそれをひっくり返す。B=A、C=A、D=A、・・・・ここで初めて解決の道が開ける。価値が使用価値の位置に来ることで、重さ=長さが矛盾ではなくなる。つまり「価値を表示する」ことをその使用価値とする商品が登場し、それが他の商品から排除されることで、矛盾は解消される。この形態が一般的等価形態であり、「価値を表示すること」を自らの使用価値とする特殊な商品が一般的等価物であり、それが貴金属に定着したものが貨幣と呼ばれる。貨幣の存在により「20エレのリンエル=1着の上着」の矛盾は解消される。20エレのリンネル=1着の上着=5千円(貨幣)となることで、価値と使用価値の矛盾は止揚され、商品流通の場としての市場が確立される。それは、バネ秤で、バネの縮んだ長さが重さを表示することと同じと考えることもできる。つまり、長さ(測定対象の重さに比例するバネの縮んだ距離)で重さを表示するバネ秤という測定器を介在させることで「長さ」と「重さ」の矛盾が止揚されるように、価値と使用価値との矛盾も、価値を表示することを使用価値とする貨幣を介在させることで止揚される。そしてそれが一般的等価物であり、それが貴金属であるとき貨幣(形態)となる。

 マルクスは、労働価値説を資本論の基礎原理とするために、それ自体労働生産物である貴金属こそが貨幣(の本質)であると考えた。だが貨幣は別に労働生産物でなくてもよい。ここで展開された論理から明らかなように、貨幣は価値を表示することを使用価値とするものであればよい。銀行券さらにはコンピュータ上の数字つまり労働生産物ではないものも貨幣になる。そしてその形態こそ貨幣に相応しい。なぜなら、本来、価値形態論では「A=B」において、AとBの量的等価性は不要であるからだ。ただ、そこには価値を表示するという機能が等価形態の位置に現れればよい。事実、マルクスは価値形態論を展開するに当たって、一旦は量的関係を捨象する。しかしマルクスにおいては労働価値説が根本原理であるため、量的関係の捨象は一時だけに終わり、すぐに等価交換(同じ労働時間を含むもの同士の交換)という図式に戻ってしまう。その結果、貨幣の記号性が隠蔽される。

 実際は、貴金属として登場した貨幣もいずれは記号となる。労働価値説に拘るマルクスはそれがみえていない。だが、ポストモダニストたちがマルクスの価値形態論を新たに読解することで、価値形態論の本質「貨幣の記号性」を明らかにした。そして、金融がグローバル化し、商品生産と流通を支配する現代、貨幣は通貨として徹頭徹尾、記号化されている。そして、今では、インターネットがその記号を媒介する代表的メディアとなっている。ポストモダニズムは、たとえばドゥルーズ・ガタリの「リゾーム」(縦横無尽に広がっていく根茎。インターネットやフリーソフトに通じる)という概念で、そのことを先駆的に理解していたと言えよう。


(H27/10/4記)


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