☆ 科学とは何か ☆

井出 薫

 「科学」という言葉は日常でも広く使われている。しかし「科学とは何か」と問われると答えることは容易ではない。

 最も広い意味で「科学」という言葉を使う時、それは「合理的」、「論理的」と同じ意味を持つ。そこでは、合理的に物事を考えることを科学と呼んでいる。このような観点に立つと、あらゆる学問は科学と呼ばれることになる。学問だけではなく、日常生活の一寸した工夫も科学に含まれることになる。「科学」という言葉をこのように使用することは別に間違いではない。しかし、ここまで広い意味で使用すると、私たちが有する「科学」という概念とは乖離が生じる。

 私たちの常識の中で、確実に科学に含まれる学問と言えば、物理学、化学、生物学などの自然科学だろう。「科学」とは「物理学のように、数学的整合性に配慮しながら数理学的なモデルを構築し、自然現象を予測し、その予測と自然現象を実験、観測・観察で検証又は反証し、実証的に理論体系を構築し、その理論を自然現象の説明又は予測に使用する学問である」と定義することができる。その場合、科学とは専ら、物理学、化学、生物学など自然科学に限定され、数学や論理学、経済学など人文社会系の学問は含まれないことになる。尤も、このように狭い定義をしても、物理学のように基礎原理を追及する学問(収斂型の学問)と、生物学のように対象に応じて多様な法則や原理を見い出していく学問(拡散型の学問)とでは大きな性格の違いがある。

 しかし、専ら自然科学だけを科学と呼ぶという立場は、私たちの日頃の科学という言葉の使用とはズレがある。数学は自然科学特に物理学においては決定的な意義を持ち、それなしには物理学は成立しない。数学は、論理学と同様に科学の大切な道具であり、科学そのものではないという考えもある。しかし、数学は単なる論理学ではない。論理学の領域を遥かに超えた広がりと深さを持ち、それが描き出す世界は自然を探究するための枠組みを定める。それゆえ、「科学」は自然科学と数学を含むと考える方が自然だろう。

 ここで、人文社会系の学問をどう考えるかが問題となる。一部の経済学者は盛んに経済学が科学であることを強調する。数学的なモデルを構築し、現象を予測し、現象との対照でモデルを必要に応じて修正する。その営みは自然を対象としていないものの物理学と変わるところはないと言われる。社会学も、また、価値自由であることを条件に科学であることを主張することがある。しかし、これらの学が物理学や生物学など自然科学と異質であることは否定できない。ある町に商品Aを千円で販売する店がただ一つだけあるとしよう。町民はみなその店でAを購入する。そこに新しい店が開店しAを半額の5百円で販売する。経済学が教えるところでは元からある店は値引きして500円にしないとAが売れないことになる。しかし、町民は相変わらず元からある店で千円でAを購入し、5百円で販売する新しい店からは購入しない。こういうことは、二つの店で商品の質も地理的な条件も全く同じだとしても起こりうる。町民は、絆や信用などから、高くとも元の店から購入する。経済学者は、町民たちの態度は不合理だと言うかもしれない。しかしそうではない。「同じ条件ならば安いものを買わなくてはならない」などという法則は存在しない。生活に顕著な支障が生じない限り、生活スタイルを変えないというのが町民の哲学だとしたら、それは実に合理的なものだと言えるだろう。経済学のモデルが適用可能であるためには、歴史的に形成された社会的制度や慣習が不可欠で、それがない限り経済学のモデルは適用できない。現実の世界を見ても、人々の消費や生産活動に関する態度は地域や時代により大きく異なっており、普遍的に適用できる経済学モデルなど存在しない。ある時期通用した経済学モデルも時と共に通用しなくなる。そもそも経済学モデルが現実を上手く説明できたことはほとんどない。たとえば安部政権の経済政策の是非や帰趨を論じる経済学者の主張はバラバラで、確固たる経済学モデルが不在であることを露呈している。このような経済学の性格を、物理学などと比較して新しい学問であること、対象が複雑であることで弁明しようとする者がいるが、説得力がない。遺伝子学は経済学よりも新しいし、神経細胞のネットワークや細胞内の生理化学現象は経済現象より遥かに複雑だ。しかし生物学・生理学はそれでも経済学よりも的確な予測ができる。

 それゆえ、経済学など人文社会系の学問は「科学」の範疇から外した方が、自然科学及び数学と、人文社会系学問との差異をはっきりさせるために具合が良い。しかし、これには多くの反発があるだろう。それは、こういう言い方が「人文社会系の学問は、自然科学や数学より劣る」と主張しているように感じられるからだ。だがそれは違う。学問の性格が異なることを主張しているに過ぎない。科学が解明することと、人文社会系の学問が解明することとは、対象も性格も方法も異なる。だから分けている。現代人は「科学」という言葉を過大評価する。だから「科学ではない」と言われると、学者は侮辱されたように感じる。しかし、それは科学至上主義に縛られている者の誤解に過ぎない。哲学や倫理学を科学だと言う者はいない。しかし、哲学や倫理学の重要性は科学に決してひけを取らない。むしろ、私たちが良き社会を築き、良き人生を送ることを第一の目標とするのであれば、哲学や倫理学は科学に優先する。経済学など人文社会系の学問は科学よりも哲学や倫理学に近い。経済学が物理学よりも劣るとか、有益ではないということはない。ただ学としての性質が根本的に異なるが故に、科学が持つ精確性や客観性は期待できない。だから物理学と同じような精度や客観性を求めると失敗する。経済学がしばしば「当てにならない」と批判されるのは、経済学の性格を見誤り、物理学と同じような学と思い違えることに起因する。ロケットを飛ばすように、経済政策を遂行することはできない。試行錯誤と対話を通じて、経済状況の改善に努めるしかない。そしてそのために経済学は大変に役立つ。ただそれは決して万能の処方箋にはならない。だがそれで十分で、その存在意義は物理学に勝るとも劣らない。

 「科学とは何か」この問いの答えは、言葉の使い方による。しかし、最も適切な使用方法は「自然科学と数学及びその応用を含むもの」とすることだろう。それにより、諸学問の性格の違いが明らかにできる。ただし、科学を過大評価しないよう注意することが欠かせない。


(H27/8/23記)


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