☆ 物理学か、哲学か ☆

井出 薫

 宇宙は138億年前に誕生し、その進化の過程で46億年前に太陽系が形成され、その惑星の一つとして地球が生まれた。地球では生物進化が起き、やがて人類が登場する。人類は文明を築き、様々な学問を生み出す。物理学では、こういう世界像が描き出される。そこでは、哲学者やその哲学思想も宇宙進化の一断面として理解されることになる。それゆえ、物理学は哲学よりもより基礎的かつ普遍的な学問であり、原理的には、哲学は物理学に基礎づけられる。もちろん、人間の行動や思考を物理学の基礎原理から厳密に導き出すことは現実的には不可能であり、この思想はあくまでも仮説に留まる。それでも、物理学の哲学に対する優位性には変わりはない。

 しかし、別の見方もできる。物理学が描き出す世界像は合理的かつ実証的ではあるが、それは人間の認識活動が生み出す一つのモデルに過ぎず、世界そのものではない。あらゆる学問は、人間の思考と様々な実践を通じて生み出されるものであり、宇宙全体と極微の世界を扱う物理学とて、そのことに変わりはない。物理学には様々な証明不可能な仮定がある。宇宙が幻想ではなく現実に存在すること、人類が登場する前(あるいは私が生まれる前)から宇宙は存在したこと、物理法則が普遍的に成立すること、こういった仮定が成立して初めて物理学は正当化される。つまり、物理学はそれ自身で立つことは出来ず、これら哲学的仮定に基づき成立している。それゆえ、哲学こそ真の基礎であり、物理学が描き出す世界像は哲学という土台の上で初めて成り立っている。こういう見方もできる。

 現代社会において物理学の存在感は圧倒的なものがある。物理学が信用できないならば、高層ビルなど恐ろしくて建築することはできない。飛行機や人工衛星を飛ばすことも、車や列車を走らせることもできない。インターネットも携帯電話も存在しない。医療用機器や医薬品も作ることができない。物理学が存在し、それを人々が信頼しているからこそ、現代文明は存立している。一方、哲学の存在感はどうだろう。「哲学」という言葉に惹かれる者は少なくないが、哲学そのものに興味を示す者は数少ない。たとえばカント哲学の話しをしても多くの者は自分には関係ないと感じる。カントの平和の構想や義務倫理の話しは確かに現代的な課題に繋がっているが、ことさらカント哲学を引き合いに出す必要はない。カントやヘーゲルを引用するのはある種の知的アクセサリーでしかない。少なくとも多くの者たちはそう考える。そして、それは決して間違っていない。

 こういう事情から、物理学が描き出す世界像は哲学の言説よりも遥かに人気が高い。哲学が物理学の土台だという考えに同意する者は一部の哲学者と哲学愛好家などに限られる。一方、物理学が描き出す宇宙の歴史、太陽系の歴史、地球と生命進化の歴史はほとんどの者が信用する。そして、哲学はその歴史の一断面に過ぎないと考える。確かに物理学は明晰かつ論理的で、現実との関わりにおいて、圧倒的な威力を発揮している。それゆえ、人々がそれを信頼し、哲学などに心奪われることがないのは理解できるし悪いことでもない。

 しかしながら、哲学から物理学が導出できないことは言うまでもないが、最初に述べた物理学の世界像は哲学的な吟味が必要で、その妥当性は疑問があると言わなくてはならない。物理学には、時間対称なミクロの原理とマクロにおける時間非対称性との整合性、量子論における観測問題、情報と熱力学的エントロピーの関係、物理学からは導出不可能な階層性の存在(たとえば「生命」は物理学では定義不可能)など原理的、根源的な問題が多数存在しており、それらの問題は物理学だけでは解決できない。さらに、当然のことながら「なぜ宇宙に物理法則が存在するのか」という問いには物理学は何の答えも与えない。「宇宙に物理法則が存在する」という事実は物理学の帰結ではなく、問うことができない前提なのだ。また、この世界には倫理の問題があるが、これも物理学の範疇外に在る。

 これらの物理学で解決不可能な問題に哲学が答えを与えられるわけではない。近年、哲学に実験や統計調査・分析を取り入れようとする動きがある。しかし、哲学は基本的に、言語分析、現象学、テクスト読解という思弁的な手法で問題に接近する。それゆえ物理学という実証的で数理学的な分野で現れる難問に解答を与えることはできない。ただ問題の性質とその背景にある暗黙の前提を指摘することができるだけだ。とは言え、このような哲学的な探究は人々の考えと行動様式を分析し、暗黙の前提を明るみに出し、新しい見方を可能とする。哲学は、物理学のような現代人の必修科目ではない。しかし、哲学を通じて、現代人の常識ともなっている物理学的世界像を批判的に吟味することができる。それは単に物理学の世界の問題ではなく、社会の、そして倫理の問題にも繋がっている。哲学を通じて、私たちは世界を複眼的にみることができるようになる。果たして、それがどれだけの成果を生み出すかは定かではない。ただ哲学が学び、考えるに値する存在であることは間違いない。


(H27/7/26記)


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