☆ ウィトゲンシュタインと人工知能 ☆

井出 薫

 ハイデガーが人工知能研究の著作で引用されることは良くあるが、ウィトゲンシュタインが引用されることは少ない。しかし、ウィトゲンシュタインの哲学的思索は人工知能について考えるとき大いに参考になる。

 ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は、その使用方法を見ることなしには、語ることができないと指摘する。特に言葉の意味を、その言葉を発したり書いたり思い浮かべたりしているときに生じている心的状態だとする考えを間違いだと警告する。このことは人工知能に大きな制約を与える。コンピュータやロボットに自然言語を理解させようとすると、その言葉の意味に相当するものをデータとしてメモリに書き込むことが必要となる。しかし言葉の意味は心の中にあるのではない。脳に書き込まれていると言うこともできない。ウィトゲンシュタインによれば、言葉の意味は社会的な文脈の中で決まるものであり、脳や心の状態で決まるものではない。しかし、人間は言葉の意味を知り、それに従い行動をする。そしてそれは知性の最も基礎的な在り方をなす。それが脳や心の中に書き込まれたプログラムやデータでないとすると、コンピュータやロボットが人間と同じ方法で知的にふるまうことは不可能となる。

 これに対しては「知的な振る舞いを実現する方法は複数ある。だから、人間のメカニズムと、コンピュータやロボットなどの機械のメカニズムが違っていても良いはずだ。」という反論があるだろう。しかし、これまでの人工知能の研究の歴史は、この差異が決定的な意味を持つことを示唆する。確かにコンピュータやロボットの知的能力は高くなっている。単なる高速に計算する機械ではなく、チェスや将棋で人間の名人を負かすところまで来ている。しかしそれでも人間の知性が持つ柔軟性と汎用性には遠く及ばない。人工知能の進歩で人間がロボットの奴隷になるのではないか、あるいは滅ぼされるのではないかと危惧する者が増えてきている。確かに危険はある。だがそれはロボットやコンピュータが人間を凌ぐほど知的になるからではない。コンピュータやロボットは人間より遥かに計算や記号処理が速い。しかし、人間のように柔軟で汎用的な知性を持たない、それゆえ極めて硬直的な行動を取る。たとえば「人間を滅ぼせ」という指令がどこかから伝えられた時には、倫理的に考え行動を抑制することはできない。つまり計算が速く大量のデータ処理は得意だが、真の意味で知性(柔軟で、倫理的、美学的な判断ができる知性)を持つことが出来ないからこそ恐ろしい。人工知能の危険性とは、自走可能な核兵器の危険性に等しい。人工知能が危険なのは、それが人間の知性を超えるからではなく、むしろ人間の知性に及ばないからなのだ。

 人間を滅ぼすことを命令されたり、そういう考えが生まれたりしても、それに対して、倫理的に考え、それを抑制することができるほどに知的なコンピュータやロボットを開発することができれば、私たちは極めて強力な助っ人を得たことになり、人間の未来は明るくなる。ただ、そのときにはロボットに対しても権利を認める必要があるかもしれない。いずれにしろ、このように真の意味で知的な頭脳を持つコンピュータやロボットを開発するためにはウィトゲンシュタインの教えを思い出す必要がある。コンピュータやロボットのアーキテクチャーやアルゴリズムを工夫するだけでは、それを実現することはできない。

 ウィトゲンシュタインの思想は、社会構築主義に近いものとして解釈されることがある。社会構築主義は教育学や心理学、社会学などで広く引用される思想で、ウィトゲンシュタインの言語ゲームや私的言語論、家族的類似性、アスペクト、確実性などの観点に似たところがある。しかし、社会構築主義は明快な原理や方法を有する思想とは言えず、漠然と、概念や知識、心、社会システムなどが社会的に構築されるという大まかな視点を与えるに過ぎない。それゆえ、社会構築主義に基づき、真に知的なコンピュータを設計し製造することは出来ない。

 寧ろ、ウィトゲンシュタインの探究に手掛かりを探す方に見込みがある。言語ゲームや家族的類似性、私的言語批判、アスペクトの考察、規則に関する考察、数学の哲学への批判など「哲学的探究」に代表される後期哲学だけではなく、「論考」における美や倫理、論理を語りえぬもの(しかし示されるもの)とする議論なども示唆に富む。ウィトゲンシュタインの個別の考察を具に再検討することで、私たちは真の知性を模索することができる。そこには人間と人間が織り成す社会の実相が実に鮮やかに描き出されているからだ。


(H27/6/28記)


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