☆ 芸術(試論) ☆

井出 薫

 芸術とは何か。答えは一つではない。一つに集約することは不可能だし、芸術は科学のように原理に還元できないところに存在意義があるから無理に一つに集約するべきでもない。しかし、「芸術」という言葉がある以上、そこには何か共通するものがあるはずだ。

 こう言うと、筆者がしばしば言及するウィトゲンシュタインを用いて反論されるかもしれない。「芸術に共通の本質などない。様々な「芸術」と呼ばれる試みと作品があり、それらには家族的類似性が見出される。しかし、そこに共通の本質を見い出すことはできない。」確かにそうだろう。時と場所によって芸術への理解は異なる。たとえ同じ時、同じ場所でも、芸術家や芸術作品への評価が完全に一致することはない。

 芸術を個々の作品や作家に焦点を当てて議論をする限りは、確かに、共通点を見い出すことは難しい。しかし、芸術という言葉で表現される人々の営みを抽象的な観点から論じるのであれば、私たちはそこに一つの展望を発見することができる。

 「他者との出会いの中で、日常とは異なる場を生み出すことを通じて、他者の同化を試みると同時に自己を異化する試み、そしてそれが生み出した様々な感覚的に把握可能な物(空気振動なども含む)たち、その中でも広く認知されたもの、堅固な体系を有さず浮遊し変形し時には解体・再生していくもの」これらの営みと生成物を芸術と呼ぶことができよう。

 如何なる天才でも無から有を生み出すことはできない。何かに触発されて初めて芸術への試みとそのための手掛かりを得る。それゆえ芸術には触発する他者が欠かせない。他者を何らかの形で現実の場で表現し現実を変形していく作業を芸術的な営みと呼ぶこともできる。いずれにしろ、他者との出会いは芸術の本質的要素となる。

 現実とは異なる場を生み出すことも欠かせない。他者をただの初対面の者と捉え名簿に追記する行為は芸術ではない。それは日常のエピソードに過ぎず、芸術への展開ではない。日常とは異質な空間を生成し、そこで他者と対峙する。こういう構図が成立するとき初めてそれは芸術的な営みとなる。

 他者と出会い、理解しようとするとき、必ず、他者を同化し同時に自己を異化しようする作用が発動する。ただ通り過ぎるだけでは芸術は成立しない。それでは他者は忘却の彼方へ消えてしまう。他者が忘却されないように留めておくためには、他者を同化することが欠かせない。しかし、それは他者の他者性を廃棄することではない。他者の他者性を保持したまま同化を試みる、それでこそ、その作業は芸術となりえる。さもないとただの加工に終わる。それは同化というよりも消化に過ぎず、日常的な生産活動の延長に過ぎない。このことにより、同化作用は同時に自己を異化する作用ともなる。異化する作用がないところでは他者の同化は他者の否定、自己による他者の支配になってしまう。同化と異化の共存で自己と他者の対等性が担保される。

 芸術は単なる観念ではない。それは伝達され、保存される何かを生み出すことで初めて芸術になる。それゆえ感覚的に把握可能な物が芸術には欠かせない。ここで「物」とは一時的な空気振動(音)、電磁波(光と色)などを含む。つまり感じられ記録できるようなものであればよく、固定した物の塊であることを要しない。なお、「感覚」ではなく「知覚」ではないかという異論があるかもしれないが、驚きや漠然とした印象でも十分であることから感覚という言葉を使用する。

 芸術と呼ばれるためには、それが広く認知されることが必要で、他の者に知られることなく破壊されたものは芸術ではない。

 ここまで述べてきた条件は、芸術の本質を示すものであるが、これだけでは十分ではない。芸術ではなく、科学や技術もほぼ同じ条件が適用される。事実、科学や技術は芸術と密接な関係がある。音楽は楽器の存在なしには考えられない。絵画では絵具やキャンバスなどが欠かせない。建築になると芸術と技術はほぼ一体となる。また芸術は科学的認識と密接な繋がりがある。レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術家であり科学者だった。現代のコンピュータグラフィックスやWEBは芸術と深い関わりがある。それゆえ、これまで述べた条件だけでは芸術固有のものが浮かび上がってこない。それでは、芸術固有のものとは何だろう。

 芸術は、科学や技術とは、体系性に違いがある。芸術にも体系はある。全くの恣意では芸術は成り立たない。しかし科学や技術の体系は堅固で簡単には変更できない。ニュートン力学は量子論や相対論で適用限界があるが示されたが、日常生活のレベルでは依然として揺るぎない基礎原理の地位を占めている。建築は芸術としてみれば自由度はかなり高いが、実際に建築物を構築する際(技術的な営み)には極めて強い制約がある。その制約を無視したら建設はできないし、出来たとしても崩壊する。科学的な計算に基づく緻密な設計、工事、工程管理、機能と安全性に関する十分な検証試験を経て、初めて飛行機を飛ばすことができる。しかし、芸術にはそれほど堅苦しいことは必要とされない。コンペに勝つにはそれなりの理論と知識が必要かもしれないが、芸術では寧ろ既存の体系を解体、変形するところに存在意義がある。そこに芸術家も鑑賞者も美と快楽を見い出す。芸術は恣意性が高く遊びに近い。芸術は科学や技術と一定の親和性を有することで、単なる遊びを超えるものとなるが、遊びが重要な要素であることには変わりない。それゆえ、芸術は「堅固な体系を有さず浮遊し変形し時には解体・再生していくもの」となる。

 もちろん、ここで与えた芸術の定式は万能のものではない。しかし、芸術を専ら感覚的なものと考え、知的で統一的な理解が不可能だとする考えは間違っている。美学や芸術論を一つの体系に集約することはできないが、一貫した視点で見ることはできる。


(H27/6/14記)


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