☆ 機械と身体 ☆

井出 薫

 電話で話しながらお辞儀する人を良く見かける。相手には見えないのだから頭を下げても無駄だと分かっていても、自然と頭が下がる。笑ってしまうのだが、私自身が同じことをしている。

 日本人にはやたらと頭を下げるという癖がある。それが日常的な振る舞いとして身体に刷り込まれているため、相手にはこちらの姿は見えないという合理的な判断に先立ち、身体が動いてしまう。だから、風呂上りで裸のまま電話に出てペコペコお辞儀するという間抜けなことをしでかしても気が付かない。

 明治時代、日本の社会に初めて電話が登場したときから、そうだったのだろうか。おそらく、そうではない。明治時代の人が、初めて電話機を目にしたとき、話しかけ遥か遠くにいる者から返事があったとき、その人はその驚くべき機械に驚愕したに違いない。目に見えない相手に頭を下げるのではなく、電話機そのものに目を見張った。そこでは、電話機という機械は確かな実在性を有し、人はまずそこに目を遣り、思いを巡らせる。

 それが、電話機が普及し、人々がそれに慣れてくると様子が変わる。電話機そのものは少しも変わらずとも、私たちの身体がそれを意識しなくなる。電話機は相変わらず目の前に存在するのだが、身体にとっては透明になる。代わりに見えてくるのが話し相手だ。勿論、テレビ電話でない限り相手の姿は目には見えない。しかし、身体は相手の声にただちに反応し、あたかもそこに相手がいるかのような構えを取る。以前はそれを電話機が阻止していたが、もはや透明になった電話機にその力はない。そのとき、感謝や謝罪の意を表するためにお辞儀をするという日本人の常日頃の振る舞いが、電話機の前で再現されるようになる。

 機械や道具は、このような経路を通って社会に定着していく。先ず他者として現れた機械に人々は瞠目する。やがて、それが普及するにつれて、電話機や腕時計のような小型の機械は他者性を喪失し透明化する。電話機の場合は話し相手との直接的な対話が(実は錯覚なのだが)現実化する。腕時計では(アナログでも)直接時刻が認知される。飛行機や列車などの大型の機械ではさすがに透明化することはない。しかし、車窓から外を眺めるとき人は窓ガラスを忘れている。初めて列車に乗った時には、窓ガラスの存在が気になり、日常と異なる速やかに流れゆく景色に戸惑ったはずなのに、いつしかそういう感覚は消え去っている。巨大な機械でも部分的には透明化している

 機械の在り方が人間の在り方を決めるという技術決定論的な考えは間違っている。人は容易に電話の前のお辞儀が無意味であることを悟ることができる。自分に言い聞かせることでそれを止めることもできる。電車の窓ガラスに注意を集中することだって容易にできる。しかし、機械が人の振る舞いに大きな影響を与えるのは事実で、透明化することで機械の支配が強まることにも注意が必要となる。政治家や官僚、大企業やマスメディアは、市民の思考や行動を操作するために、機械と身体の相互関係を利用する。ヒットラーは映画を大衆動員に利用した。映画に慣らされた人々はスクリーンと映写機という機械を忘却し、そこに映しだされるナチと一体化する。それは電話の前のお辞儀と同様、錯覚に過ぎない。だが透明化した機械の前で錯覚に気付くことは容易ではない。

 新しい機械が、最初のうち人々を瞠目させ、やがて透明化し社会に定着することは、新しい可能性を社会に与え人々を豊かにすることに貢献する。しかし透明化した機械には危険が付き纏っていることも忘れてはならない。


(H27/5/24記)


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