井出 薫
技術が発展普及し社会を変えていく過程を論じる理論には、技術決定論とか社会構築主義とか色々あるが、しばしば「技術」そのものへの理解を欠くために不毛な議論に終わる。 技術と言うと、自動車とかパソコンなど製造物を思い浮かべることが多い。しかし、羊の群れにパソコンや自動車を与えても障害物にしかならない。原始人にパソコンや自動車を与えても奇妙なものにしか映らない。パソコンや自動車を知っている者の傍で初めてそれは技術として機能する。さらに、製造物には必ず製造者がいる。技術とは「設計・製造者」、「製造物」、「使用者」の3者から構成されるもののことであり、この構造から切り離された製造物だけを意味するものではない。ところが、このことがしばしば忘却され、技術=技術的な製造物と錯覚される。 しかしながら、製造物(及びその形状、構造、機能、部品、ソフトウェア、アルゴリズムなど)が技術の中核的な役割を担い、技術への問いが向かう焦点に位置することは間違いない。技術と同様、芸術も作者、作品、観賞者という3者から構成される。しかし技術と違い作者に唯一無二性がある。モナリザの作者レオナルド・ダ・ヴィンチは唯一無二の存在で取って代わる者はいない。それゆえ芸術における作者の存在は大きく、作者のことを知らないと作品を理解できないこともある。だが技術の場合は、製造者に唯一無二性はなく利用者も技術を使う上で製造者を知る必要はない。(なお、発明者は唯一無二だとしても、発明品はすぐに改良が施され発明家の存在は後景に退く。)それゆえ技術においては、製造者と利用者は背景へと後退する。その結果、製造物が技術において圧倒的な存在感を示す。 だが、それでも、製造者と利用者抜きには技術は技術足りえない。製造者と利用者を介して個別の技術(たとえばインターネット)は他の技術(半導体、光ファイバケーブル、プログラミングなど)と繋がり、さらには社会の諸領域と繋がる。それゆえ技術を問うには、製造物を中心に配置しながら、製造者又は利用者としての人と物、人と人との関係を視野におさめて議論を展開する必要がある。 ところで、このように人と人の関係にまで議論を拡げると、「それは技術=社会を意味することになり、技術決定論も社会構築主義も無意味だということになる」と思われるかもしれない。しかし、そうではない。工場で働く労働者は(たとえば)自動車を作るという目的のためだけに共同存在している訳ではない。工場でも、人々は多様な人間関係の中に在る。政治的な同志であったり、利害得失を超えた盟友であったり、遊び仲間であったりする。家族、友人、恋人であることもある。人は技術という枠組みの中だけで、他人や物と関係を結ぶのではない。それゆえ「技術=社会」にはならない。 技術への問いの核心は、(人と様々な財を含む)技術という領域が、その他の社会の諸領域にどのような影響を与えるか、影響を受けるかということになる(注)。そして、この関係性において、技術が発展普及し社会を変えていく過程を論じることの目的と意義、方法が明らかになる。そのとき初めて、様々な技術論の立場(技術決定論、社会構築主義、その他)を評価することができるようになる。 (注)「技術とはそもそも何か」という問いもこの関係性において意味をなす。 了
|