☆ 哲学と言葉、その根源性と限界 ☆

井出 薫

 ハイデガーは、哲学の最重要問題は「存在とは何か」という問いだと言う。これを聞くと、私たちは、往々にして、ハイデガーの問題とは、「存在」という言葉で呼ばれている「ある者」が何であるかを探究することだと勘違いする。こう解釈すると、ハイデガーの最重要問題は、「「存在」と呼ばれるある者=「存在者」とは何か」という問いに帰着する。つまり「存在とは何か」は「存在者とは何か」と等しくなる。ハイデガーの哲学は、正しく、この等式を解体する作業から始まる。「存在とは何か」は「存在者とは何か」とは異質であり、後者の問いを可能とするための地平を明らかにする問いだと言う。「存在」は「存在者」とは異なる。しかし(ハイデガー以前の)哲学はこの差異を十分に理解しておらず、無意識のうちに、「存在とは何か」という根源的な問い、哲学の第一の問いを「存在者とは何か」という問いと混同してきたとハイデガーは指摘する。

 ハイデガーは正しい。「存在者」とは、常に「存在」に関する一定の了解の下に現れる。たとえば、物理学では、「存在」は、「時間」と「空間」という枠組み、その枠組みの中の「物」と「場」、これらの数学的組み合わせという姿で了解されている。そして、この存在了解の下で、時間と空間それ自体、様々な物質(素粒子など)、相互作用の場などの存在者が探究の対象となる。最新の物理学理論たとえば究極理論と期待される超弦理論は時間と空間、物と場の境界を解体し一つの幾何学に還元することを試みる。それが成功した暁には時・空・物・場は一つの幾何学に還元されることになる。だがその理論が如何に優れていて、あらゆることを説明できたとしても、物理学的な認識は常に時間と空間、物と場という枠組みで展開される。そうしないと、物の変化や(変化にも拘わらず)保存される様々な物理量などを理解することができない。物理学がいくら進歩しても、それが人間の学である限り、物理的世界を織り成す存在者に対する一定の存在了解を超えることはない。物理学が描き出す世界が、人類が誕生する遥か以前の世界そしてまた人類が滅びた後にも存続する世界を含むとしても、そのことに変わりはない。

 このことは、物理学以外のあらゆる学問、そして学問を超えて人間のあらゆる活動に当て嵌まる。それゆえ、「存在とは何か」という問いはまさしく根源的な問いであり、それを問う哲学は他の個別科学(人文社会科学を含む)には決して還元されない孤高の地位を保つ。だが、ここで「存在とは何か」という問いはそもそもどういう問いなのかが問題となる。「存在」が「存在者」と異質なものであるとすると、「存在」は要するに「言葉」だということになる。ハイデガーは「「言葉」は「存在」の住処だ」と語っている。こう言うと、「存在」と「言葉」は別物で、その片方が別の片方に宿るという印象を与えるがそうではない。ハイデガーの箴言は「存在」とは本質的に「言葉」であることを示している。それは「存在(了解)」が「存在者」に先立つ以上、必然的に導かれる結論だと言ってもよい。なぜなら「存在」は「存在者」に依存することができず、それゆえ「言葉」であることに留まるしかないからだ。

 ウィトゲンシュタインは、全ての哲学は言語分析だと語っている。ハイデガーの思想は、この意味で、ウィトゲンシュタインの思想と通底する。20世紀を代表すると称されるこの二人の哲学者は共に、終生、言葉に拘り哲学的思索を続けた。ウィトゲンシュタインは、哲学は無意味だと宣言しながらも、死ぬまで哲学的思索を止めることはなかった(できなかったと言うべきか)。ハイデガーも、晩年は、哲学が占めていた地位はサイバネティクスに取って代わられたとして、哲学ではない新しい思索が必要だと語ったが、それでもその思索は最後まで哲学的なもの(つまり「言葉を問うこと」)であり続けた。

 このように、言葉は最高の学的対象であり、それを問う哲学は他の個別科学を超える地位にあると言える。だが、ここにこそ、言葉と哲学の限界がある。あらゆる学問は、数式や特殊記号を含む広義の言葉で構成される。だからこそ、言葉こそ根源であり、哲学は最高位の学だと主張することができる。しかし、他の個別科学、特に、体系と方法が整備され高く信頼されている数学と物理学、この二つに続く化学と生物学その他自然科学、人文社会科学の中では体系と方法が整備されている経済学、法学などは、明確なアルゴリズムに基づく計算、実験と観測・観察、統計データの収集と分析、道具や機械の製作と運用保全、制度と組織の制定及び政策の立案とその実施・運営、このような(言葉には還元できない)現実的な活動を通じて、着実に進歩している。そしてそれらは実質的に言葉と哲学を超えている。それに引き換え、哲学はプラトン、アリストテレスの時代からはっきりとした進歩はない。デカルト、カント、ハイデガーのような大哲学者が時折現れ新しい思索の道を開くが、それが問題を解決することはなく、問題を定式化し直すことに留まる。ハイデガーは「全ての偉大な哲学者は同じ問いを問う。それは「存在とは何か」という問いだ。」と指摘する。ハイデガー自身、その問い「存在とは何か」は、アリストテレスの著「形而上学」を引継いだものでしかない。そして、同じように言葉にも限界がある。時代と共に様々な新しい言葉が生まれ言葉の使い方が変化するが、その基本的な構造はさほど変わることはない。変わってもそれを進歩と言えるか疑わしい。

 それゆえ、言葉は全ての学とその他の人間活動の基盤であり、哲学は最も高貴な学であるにも拘わらず、他の個別科学、機械と産業活動、様々な実利的な社会制度などの進歩と高度化に伴い、言葉は記録手段へと転落し、哲学は無益で空疎な学へと後退している。これは20世紀半ば以来、文学が大衆化するかシュールでごく一部の者以外理解不能なものとなっていることと符合する。

 人類の歴史の中で、言葉はいつの時代もコミュニケーションのための道具であった。しかし、それでも、それは比類なき存在、道具を超えて社会を構成する原理であり、同時に人の生そのものでもあった。言霊信仰は洋の東西を問わずどこでも見られる。それほど言葉は卓越しており、それを扱う哲学もまた卓越した存在であった。しかし、社会の近現代化と共に、その限界が露呈した。私たちは言葉と哲学で、存在を、そして存在者を見い出した。しかし、その存在者は、言葉を超えるものであり、存在者が織り成す世界は言葉で語り尽くせるものではなかった。

 私たちは、今、言葉と哲学を超える世界へと進出している。それは人間の卓越した力を示す。だが、同時に、それは、言葉と哲学で制御できない時代、語るべき過去と未来がない時代へと突入していることを物語る。人類の歴史がどのような結末へと至るのか、科学の進歩にも拘らず、もはやそれを予測することはできない。


(H27/3/22記)


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