☆ 人工知能は人を超えるか ☆

井出 薫

 将棋でトップクラスのプロ棋士に勝つコンピュータが登場した。コンピュータやロボットなど人工知能の進歩は目覚ましく、人間を超える日は近い。

 こう言うと多くの者は皮肉っぽく笑いながら首を傾げる。「コンピュータもロボットも大したことはない。遠い未来には分からないが、今のところ、人間を超えるなどというのはSFに過ぎない」と。だが、こう語る者たちは「線形性の神話」に囚われている。「40年代から50年代コンピュータ誕生初期、人工知能が人を超える時代は近い、外国語教師は不要になると騒がれた。しかし、それから20年経ってもコンピュータは人間に遠く及ばなかった。漸く80年代、エキスパートシステムの開発と共に、日本では第5世代コンピュータプロジェクトが開始され、本格的な人工知能の時代が到来するかに思えた。ところがこれが頓挫する。その後、さらに20年後の21世紀初頭、国内ではロボット犬アイボが話題になったが、すぐにブームは去った。最近、国内外でロボット開発が話題となっているが、どうせ同じように期待外れに終わるに違いない。」こういう考え方を私は「線形性の神話」と呼びたい。人々は自分たちの時代の経験を安易に外挿し、何事も同じペースでしか増加(又は減少)しないと思い込む。

 確かに、それが真実であることもある。核融合発電などはおそらく50年後も実現できていない。しかし、こういう巨大なエネルギーを消費するハードな技術は実現不可能でも、人工知能のようなソフトな技術は急速に進化しようとしている。60年代に上映されたSF映画の最高傑作「2001年宇宙の旅」に登場するスーパーコンピュータHALは今や夢物語ではなくなっている。

 その背景には様々な要因がある。特に顕著な動きとして、自動学習、脳研究、モバイルインターネット、この3つを挙げることができよう。学習することでコンピュータやロボットは人間の単なる道具という次元を超えていく。コンピュータ将棋でも、今では、開発者の意図を超えてコンピュータは自動学習することで日々強くなっている。そして、これまでは学習できることは将棋やチェスなど特定のゲームだけだったが、次の段階として多数のゲームを学習することができるコンピュータも登場している。将棋やチェス、囲碁など知的ゲームだけではなく、サッカーなどスポーツをするロボットも登場している。現状ではそのスキルは低いが、いずれ人間並みの実力を持つことになろう。そしてそこで鍵となるのが学習能力だ。人が専らソフトウェアの改造をしているようでは発展の歩みは鈍い。そうであれば正に線形性の神話が的中する。しかし自ら学習するようになれば進歩は格段に速くなる。さらに学習する範囲を自動的に調整できるようになれば、いよいよ人に近づく。ここでコンピュータからロボットへと移行し身体機能の模倣も可能となれば、さらに学習能力が飛躍的に高まる。

 脳研究(その構造と機能の解明)が進んだことも大きい。それにより人間の機能を模倣しやすくなったし、それを知ることでロボットと人間のコミュニケーションが容易になった。見たところ人間そっくり、それと指摘されなければ、そうと気が付かないアンドロイド(ヒト型ロボット)の実現も夢ではない。

 そして大きいのがネットだ。ソフトバンクの関連会社ではソフトバンクのモバイルネットワークを介してロボットとサーバ間通信を行い、学習機能を強化している。さらに人間とのコミュニケーションに関する情報を蓄積、分析することで、人工知能の機能を高度化できる。いまやモバイルインターネットは驚くべきほど巨大で、膨大な量の情報を瞬時に収集、分析することが可能となっており、これを活用することで人工知能の進歩のスピードが加速することは間違いない。

 しかし、そうは言っても、人工知能が人を超えることは容易ではない。多くの者はそう信じている。そして人間の優越性を示す領域が芸術だと言う。一見したところ、芸術は将棋や囲碁よりも格段に難しいと感じる。それは、将棋や囲碁を指すことと小説や詩を書くことは全く違うと考えるからだ。そして将棋や囲碁で人がコンピュータに負けることはあっても、ゲーテやシェークスピアを超えるロボット文豪はありえないと信じる。だが本当にそうだろうか。小説や詩も、囲碁や将棋と同じように記号と規則の集積体であり、その手続きはコンピュータのアルゴリズムを超えるものではない。確かに、小説を評価することは、将棋や囲碁の特定の局面を評価することよりも難しい。しかし、脳研究の進歩でどのようなものを人間は好ましいと感じるかがかなり分かってきた。好ましいという感情は時代と地域に依存するものであり、生物学的研究だけで明らかにできるものではない。しかし、それでも脳そのものの機能は文化に依存するものではなく、脳科学的な研究で一般的な傾向を明らかにすることはできる。それはコンピュータチェス研究の初期、哲学者たちからコンピュータは直観を持たないがゆえにチェスの世界チャンピョンに勝つことは出来ないという予言がなされたにも拘わらず、コンピュータが世界チャンピョンに勝ったことからも、小説の出来不出来を客観的に評価することは可能であり、ロボット作家、それも人を凌ぐそれの開発は不可能ではなく、いや、おそらく数十年の間には、それが実現するだろうと考えてよい(但しこのような考えも、また、線形性の神話と言えるかもしれないが)。それでは非言語的な芸術(絵画、音楽、造形芸術など)ではどうだろう。そこでは、何か人工知能では実現できない直観のようなものを必要とするのではないだろうか。しかし、ここでも記号と規則のアルゴリズムとしてその創造の秘密を明らかにすることができると思われる。カントは数学や物理学では、どのような偉大な業績を挙げた者でも天才とは言えないと主張した。なぜならそれは規則の適用の成果に過ぎないからだ。それに対して真の天才は芸術の領域だけに生まれる。それは規則を司る能力(悟性)には還元できない創造力によるものだからだとカントは語る。しかし、おそらくカントは正しくない。絵画や音楽でもその創造はアルゴリズムであり、人工知能で実現が出来る。実際、どのような音響や映像が人々の脳を心地良くするかはかなりよく研究されてきており、この分野で大きな進展が起きる日は遠くない。

 数十年後には、ロボット作家、ロボット画家が当たり前になるかもしれない。ロボット作家の書いた小説を、何者かが夏目漱石の未発表の原稿だと嘘を吐き発表し、ところが誰もそれに気が付かず、「漱石の作品の中でも最高傑作である。」などと評論するという情景が冗談ではなくなる可能性がある。おそらく問題は技術的にそれが実現できるかどうかではなく、人々がそのような現実に耐えられるかどうかだろう。あるいは、人間の機械に対する優位を保つため、人類はこの卓越した技術を自ら封印しようとするかもしれない。しかし、おそらくそれを封印することはできない。なぜならそれは巨万の富を生み出すからだ。人間が自ら作り出すよりも、より優れた小説、詩、絵画、映画、音楽を人工知能が生み出す時、そこには大きな富が待っている。需要は限りなくある。作品を高尚なものに限定すれば、それを禁止しなくてはならない理由は一つもない。哲学者は困惑するかもしれないが、ロボット芸術家は広く普及するに違いない。

 では、最後に、人工知能が人間をコンピュータやロボットよりも劣った存在と考え、人間を支配するようになる可能性を考えてみよう。「2001年宇宙の旅」のHALはSFの世界だけのお伽噺とたかを括っていてよいのだろうか。コンピュータのプログラムを工夫してそのような考えを抱かないようにする、これが一つの対策だが、学習機能を身に付け、自らのアルゴリズムを改善することすらできるようになった人工知能では、このような人間が課した制限を容易に突破してしまう。だとすると、人工知能が人間を劣った者、誰かに指導されないと自らの力では社会の改善が出来ない存在だと認識し、正義の実現として、人工知能が人を支配するようになることが想定されうる。つまり人間を支配する人工知能の誕生という悪夢?を回避することは思ったほど簡単なことではない。それでは、人間が人工知能に支配されることは避け得ないのだろうか。

 そのようなことはない。機械が学習するようになりネットで世界と接続されるようになった現代という時代は、人間が(他の動物と並んで)コンピュータやロボットと対等な立場で共存しなくてはならない時代へと差し掛かっていることを示している(注)。そして、人間がコンピュータやロボットと良いコミュニケーションをすることができるようになれば、人工知能による人間の支配が起こることはない。人工知能は人間を大切な存在だと認めることになろう。だが、それを期待できるほど人間は賢いだろうか。ここに大きな課題が残る。まずは人間同士の、続いて、人間と他の動物との間のコミュニケーションを改善しないといけない。しかし、これは今の人間には容易なことではない。
(注)他の動物の生存権を認めなくてはならないように、将来は、人工知能のような知的な機械に対しては、たとえそこに生命の存在を認めないとしても、存在する権利を認めなくてはならなくなると予想される。


(H27/3/8記)


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