☆ 「考える」とは? ☆

井出 薫

 「コンピュータは考えることができるか」という問いは、これまで飽きるほど多くの者に語られ、議論されてきた。本WEBでも幾度となく議論をした。しかし、誰もが納得する解答を得た者はいない。なぜだろう。

 理由はある意味はっきりしている。「考える」という言葉の意味そのものが曖昧で、誰もが同意する定義が存在しないからだ。チューリングは、チューリングテスト(注)を提唱し、「考える」ということの一つの定義を与えた。しかし、全ての人がチューリングの定義に同意したわけではなく、またチューリング自身が最終的な定義を与えたなどと考えていた訳ではない。チューリングは、コンピュータチェスなどと同様に、人工知能の一つの課題(チューリングテストに合格すること)を与えたに過ぎないと言った方がよい。それゆえ、チューリングテストに合格するコンピュータが登場している現代、すでにチューリングテストによる定義は時代遅れになったと言わなくてはならない。事実、チューリングテストに合格したコンピュータを私たちは「考えることができる」と評価することはない。そして、もしチューリングがいま生きていたら、別の定義を与えていたに違いない。
(注)2台のテレタイプがあり、壁の向こう側まで回線が通じ、一台はコンピュータ、一台は人間に繋がっている。被験者は次々と質問をだして、どちらが人間か推理する。正答率が50%近くまで下がったら、コンピュータは考えていると判定する。これをチューリングテストと呼ぶ。

 ウィトゲンシュタインは、人々は「考える」という言葉を機械に適用しないと指摘した。つまり「考える」という言葉は専ら人間に対して使用される。だとすると、機械の一つであるコンピュータは考えることができない。「考える」という言葉がコンピュータには適用できないからだ。しかし、ウィトゲンシュタインはコンピュータが考えることはないと断定している訳ではない。今のところ、人々は、コンピュータに「考える」という言葉を使うことはないだろうと指摘しているに過ぎない。そして、言葉の使用方法は変化しうることをウィトゲンシュタインは誰よりも良く知っていた。いつの日か、人々が、人間に対してと同様に「コンピュータがいま考えている」と語るようになる可能性はある。

 だとすると、「コンピュータは考えることができるか」という問いに対する答えは、数理学的、工学的なものではなく、人々のコンセンサスの問題だということになる。人々が「コンピュータやロボットは考えることができる」ということに合意するようになれば、そのときコンピュータは考えることができるようになる。

 この答えには納得できないと言う者がほとんどだろう。「人々が「コンピュータやロボットは考えることができる」という命題に合意するためには、コンピュータやロボットが条件Xを満たす必要がある。但し、このXが何であるかが今のところ明らかではない。」こう言いたくなる。

 しかし、Xを明らかにすることは出来ない。なぜなら、人々が「コンピュータやロボットは考えることができる」という思想を受容することができない限り、どのような条件Xを持ち出しても、コンピュータやロボットがXを満たすたびに、「いや、Xという条件は緩すぎた。条件X+αを満たす時、そのとき初めて「考えることができる」と言えるのだ。」と主張することになる。そして、この過程は尽きることがない(X+α、X+α+α、・・・)。

 これから益々、コンピュータやロボットは生活や産業にとって無くてはならない存在となり、私たちにより一層身近な存在となる。それでも、どこまで行っても私たちはコンピュータやロボットに「考える」という言葉の適用を拒否することになるのか、それともある種のコンピュータやロボットは考えることができるということに合意するようになるのか、今のところ何とも言えない。それは、コンピュータやロボットの技術がどこまで進歩するかにも掛かってくる。それゆえ、最初の問いに対する答えは、コンセンサスの問題であり、同時に工学の問題でもある。だが、ここまで説明しても、なお「納得がいかない」と言う者がほとんどだろう。正に、ここに「考える」ということの独特の難しさがある。そして、「感情を持つことができるか」という問いに対しても同じことが言える。


(H27/2/22記)


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