井出 薫
自然科学は、自然現象を説明し、未来を予測しあるいは制御することにその意義がある。特に、物理法則の普遍性とその比類なき威力は自然現象が広く同じ原理に従い生起することを示唆している。 自然科学では客観性(注)が重要となる。物理法則はどのような信念を持つ者にも厳密に等しく作用する。物理法則は人の意志や希望で変えることはできない。逆に言えば、そういう性質を持つ理論でないと正しい物理法則を導くことはできない。しかし、これに対しては異論がある。「自然法則にも人間的特徴や社会の中で構築された理論の影響が現れる、それゆえ客観性などという概念は成立しない。物理法則も物理学の原理も全て社会的に構成されたものに過ぎない。」こう論じる者がいる。確かに、電流計の表示を「10アンペア」と読むことができるためには、電磁気学の理論が正しいという前提が欠かせない。電磁気学の理論が正しくないと「10アンペア」という表現には意味がない。つまり測定結果は自然現象そのものを示しているのではなく、社会的な理解(=電磁気学の体系)と一体となって初めて意味を持つものでしかない。それは自然現象が社会の中で構成された理論と切り離すことができない存在であることを含意する。その意味で、自然現象とはすでに社会的現象であり、私たちの信念に強く依存するものだと言わなくてはならない。しかし、自然科学においては、正しい理論は極めて厳しい制約の中にしか見い出すことができない。方程式の表現方法は無数に存在するとしても、その意味しているもの、その自然現象との関係について私たちは選択の余地がない。方程式の解き方が間違っていたら人工衛星を静止軌道に乗せることはできない。エネルギー保存則に反する現象は幾ら望んでも実現することはない。人間は自然の中に埋め込まれており自然に従うしかない。「自然現象=社会的現象」だとして、それは表現形式の自由度に関することでしかなく、その実質は人間の意志から独立しており、その意味で客観的であることを認めなくてはならない。言い方を変えると、認識論的には自然科学と言えど人間的特徴に影響され社会的に構成されたものであるが、存在論的には客観的なものと言うことができる。 (注)現代哲学において、「客観とは何か」という問いは極めて難しい問題とされている。しかし本稿ではこの問題には触れない。寧ろ、読者にとって、本稿がこの問題への入門となっていることを期待したい。 それに対して、社会科学は認識論的にだけではなく、存在論的にも客観性は有しない。人は確かに社会に埋め込まれている。しかし社会とは、様々な信念や希望、意志そして感情などを有する人々が織り成す、様々な手段によるコミュニケーションを媒介として現象するものであり、人はそれに介入することができる。人々を革命運動へと駆り立てることで革命が実現する。あるいは革命への熱い情熱が自発的な運動として革命を現実化する。逆に、恐怖がその恐怖していた最悪の事態を招く。 経済学の領域では、このことを示すもっと単純な事例が山ほどある。株が上がると人々が信じれば事実上がる。景気が良くなると信じれば実際に景気は上向く。日本政府が景気対策で苦戦しているのは、日本人がなかなか景気の先行きや自分の将来に楽観的にならないからだ。幾ら金融緩和を実施しても、減税しても、公共投資をしても、人々が未来に不安を抱き守りに入り、貯蓄に専念し支出を抑えれば景気は良くならない。金融緩和はエンジンにガソリンを注入することとは違う。金融緩和は人々に楽観的なムードを与えることに成功したときだけ目的を達する。楽観的なムードを与えることができなければどれだけ緩和してもはっきりとした景気回復は実現できない。 社会科学は、それゆえ、それを実践に応用し人々の思考と感情を変えることを通じて社会を変革することに意義がある。社会科学は現状分析と説得の技術だと言ってもよい。それは自然科学と同じ意味では客観性を持たない。如何に精緻なモデルでも、理念型でも、理論を単独で展開するだけに終始する限りにおいては、それは大した意味を持たない。何らかの政策や人々の実践を喚起することで初めてそれは威力を発揮する。数理経済学がすぐれた数学モデルを持ちながら、しばしば役立たないと批判されるのは、それが適切な政策や実践を導くことに成功していないからだ。政策や実践は学者だけの力では生み出すことはできない。それは理論だけではなく現実社会における様々な条件との組み合わせで実現する。経済学はしばしば社会科学における物理学(つまり基礎)だと言われる。しかし経済学は物理学のように自律した学ではなく、他の諸学並びに社会的諸要件と共にあることで初めて存在意義を獲得する。他の社会科学の分野でも同じことが成り立つ。しかし、この外部依存性と客観性の欠如は社会科学の欠陥ではない。また自然科学に学問として後れを取っている訳でもない。私たち人間は自らの意志で未来を選択することができる。少なくともそう信じている。まさにそのような人間存在の在り方を反映した学が社会科学(あるいは人文科学)と呼ばれている。それはその重要性にもおいても有用性においても自然科学に劣らない。ただ、その性格の違いを認識しないと、その威力を十分に発揮することは出来ないし、その限界を弁えることもできない。しかし、逆に、このことを理解することで、自然科学には不可能な倫理の問題に社会科学は接近することができる。 了
(補足) 自然科学的な客観性や数学の厳密性に現代人とくに学者は拘りすぎていると言えるかもしれない。「社会科学には自然科学と同じ意味では客観性がない」と言うと、侮辱されたように感じる学者が少なくないだろう。それは自然科学に後れを取ることを意味するという(間違った)印象を与えるからだ。だがそれは逆に無意識のうちに自然科学至上主義に陥っていることを示唆する。寧ろ、自然科学的な客観性という視点から社会科学を解き放つことで、社会科学は真価を発揮することになる。 |