☆ 哲学の意義 ☆

井出 薫

 哲学の意義は何か。そもそも「哲学とは何か」という問いに対する答えが、人によってまちまちなのだから、答えようがないと思われるかもしれない。だが「批判の学」こそが哲学であり、批判という機能こそが哲学の意義だと言ってよい。

 20世紀にイギリス、アメリカで広く普及した分析哲学の開祖の一人、フレーゲは、数学や論理学の基礎を徹底的に探究した。フレーゲは、一般世間で哲学の主要問題と目される「倫理」や「世界の本質」に関する議論はほとんど行っていない。それゆえ、フレーゲは哲学者と言うよりも論理学者だと主張する者もいる。しかし、アリストテレス以来の伝統的論理学の基礎を根源的に問い、新しい論理学の可能性を明らかにした点で、フレーゲの思想は正に哲学の名に相応しい。なぜなら、誰もが信じていたアリストテレスの論理学を批判の対象としているからだ。

 同じく分析哲学の開祖の一人であるムーアは「倫理学原理」を書いて哲学界に一石を投じた。倫理は伝統的に哲学の主要課題とされている。だがムーアが書いた本は既存の哲学書とは全く異なる性格を有していた。それまでの哲学は「何が善いことか」と問うてきた。それに対して、ムーアは「そもそも「善い」(good)とはどういうことか」かと問い直す。「「善い」とはどういうことか」という問いは、「何が善いか」という問いとは異なる。後者は前者の問題が解決されて初めて意味を持つ。「善い」に関する理解が異なれば、「何が善いか」という問いに関する論争は不毛なものとなる。そして、事実ムーアの本が現れるまで、哲学者や一般市民は「善い」に関する共通理解を欠いたままに「何が善いか」を論じ、意見の一致を見ることがなかった。ムーアの哲学は、その不備を突いた。これは人々が、最初に論じなくてはいけない問題を忘れていることを厳しく批判した一級の哲学と言ってよい。

 ムーアの問いは、ハイデガーの問いとよく似ている。ハイデガーは「存在とは何か」を問う。それが哲学の最大の問題だと指摘する。そして事実、古代ギリシャ以来の哲学は、常に「存在とは何か」を問題にしてきたとハイデガーは指摘する。ではハイデガーはその延長線上にいるのだろうか。違う、ハイデガーは全く新しい視点から存在を問う。ハイデガーは「存在(在る)」そのものを問う。それまでの哲学は実は「存在(在る)」とはそもそもどういうことか、という第一の問題を看過し、「存在とは何か」という問いを、それと気づかないうちに、「存在者とは何か」(あるいは、「存在者全体の性格はどうなっているのか」)という問いにすり替えていた。つまり「存在(在る)」は忘れられていた。「存在するのは、物質か精神か」という問いは、しばしば唯物論と唯心論の対立として知られている。また人間の認識は外界に規定されるのか、内的な観念に規定されるのか、という問いが実在論と観念論の対立として知られている。また唯物論と観念論を対立概念とすることもある。しかし、いずれの対立も「存在(在る)」とはどういうことかと問うことを忘れた不毛な論争となっている。ハイデガーはそのことを指摘し、「存在者」と「存在」を慎重に区別し、「存在」そのものを解明し、新しい「存在」を定立しようとした。正に、それは哲学の歴史に対する根源的な異議申し立てであり、哲学の名に相応しい。ハイデガーがしばしば20世紀最大の哲学者と呼ばれる理由はここにある。

 フレーゲ、ムーア、ハイデガー、そのいずれも、当初の目的を果たしたとは言えない。ハイデガーは晩年には、哲学には期待できない、新しい思索が必要だと語っている。しかしそれでもハイデガーの既存の学や知への異議申し立ての試みは、終生変わることはなかった。ハイデガーは哲学に否定的になっていたが、それでも最後まで哲学する者だった。そして、他の20世紀の偉大な哲学者たちも、その思想的立場の違いを超えて批判者で、その批判が意義を持っていた。少しでも哲学をかじったことがある者ならば誰でも、どんな偉大な哲学者でも、哲学書でも、その誤りを指摘し、その理論の限界を指摘することができる。だが問題はその批判が「哲学」の名に値するものなのかということにある。カントがユークリッド幾何学やニュートン力学を絶対視していた、ヘーゲルの弁証法的論理学は無意味である、などという批判は誰にでもできる。しかし、そのような指摘をするだけでは何も新しいものは生まれない。また、逆に、「いまこそマルクス」、「いまこそヘーゲル」、「いまこそニーチェ」などと言う者たちが増えているが、ほとんどの場合、その批判が意味をなしていない。権威にすがって現状批判をしようとしているからだ。批判が批判として真に機能するためには、権威主義と決別する必要がある。「マルクスの予言は的中した」などということは誰でも言える。マルクスに学びながらもそれを批判的に超えていくときに新しい批判の道つまり哲学の道がみえてくる。

 批判は最も容易いことであるように見えるが、実は最も難しい。真の批判は、「批判」そのものを批判する。だが、それはときには自己言及的になり不毛な探究に陥る。そこに陥ることなく、徹底的に批判を継続することこそが哲学への道となる。そして、そういう土台の上でこそ、初めて現代への批判が可能となる。しかし、そのようなことができる者が今の時代にいるだろうか。そこに不安がある。哲学は今でも十分に意義があるが、哲学はもはや不可能であり、哲学者はどこにもいない、ということにならなければよいのだが。


(H27/1/11記)


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