☆ 知能 ☆

井出 薫

 「知能指数」、「人工知能」、「流動性知能と結晶性知能」。「知能(知的な能力)」という言葉は色々な所で使われる。しかし、「「知能」とは何か」と問われると答えるのは難しい。人工知能研究は一定の成果を挙げ、人間に近い振る舞いをするロボットも登場している。それでも、半世紀前に語られた「21世紀には人間の労働はほとんどがロボットに置き換えられ、人間は芸術、学問など創造的な活動に専念するようになる」という楽観論と比較すると、その発展は絶望的なほど鈍い。その理由の一つは、「知能」とは何かが分かっていないという点にある。

 「理性」や「知性」と同様、「知能」の唯一無二の明確な定義や説明は存在せず、研究者、思想家によってそれぞれ考えが異なっている。「知能」を、「記号操作を含む広義の計算能力」と同一視する者もいれば、「ハードウェアとソフトウェアの両方で人間と同等な存在者だけが有する卓越した能力」だとする者もいる。前者の考えだと、すでに現存するコンピュータに知能を持つ資格があり、残る課題は知能を実現するソフトウェアの開発だけということになる。但し、正確に言えば、そのソフトウェアに相応しいハードウェアが必要になるが、それでも無機的な半導体素子で知能が実現できることには変わりはない。一方、後者の考えでは、知能を持たせるには、人間と同等の有機高分子からなる身体が必要となるから、半導体や金属からなるコンピュータは知能を持つことができないということになる。

 批判は多いが、今でも知能を計算能力と等価とする考えは根強いものがある。その理由はこの考えを否定する明確な根拠がないことと、現実問題としてコンピュータやロボットで知能を実現しようとするとき、知能=計算能力と捉えることができれば都合が良いからだ。このように考えることで、知能はアルゴリズムに帰着し、人工知能の実現はソフトウェア(プログラム)開発に還元できる。だが、このような考えはいささかご都合主義で、「私が知能だと考えるものが知能だ」というトートロジーに陥る危険性がある。

 チューリングテストは、思考能力の有無の判定によく引き合いに出される。2台のテレタイプがあり、壁の向こう側まで回線が通じ、一台はコンピュータ、一台は人間に繋がっている。被験者は次々と質問をだして、どちらが人間か推理する。正答率が50%近くまで下がったら、コンピュータは考えていると判定する。これがチューリングの提案で、このテストをチューリングテストと呼ぶ。チューリングテストは、知能を計算能力と等価と前提するものではない。しかし人を欺く戦略を考案することは、特定のアルゴリズムを開発することに等しく、計算能力の範疇に収まる。それゆえ、チューリングテストに合格するコンピュータが登場すれば、知能の核心と言うべき思考がコンピュータで実現できたことになるから、知能=計算能力という考えに説得力が生まれる。

 現実にはすでに、チューリングテストに合格するコンピュータは多数存在する。しかし、私たちはそのコンピュータに知能があるとは考えない。大量のデータを高速処理するコンピュータと同様に、ただアルゴリズムに従って物理的に動作しているだけと考えている。事実、チューリングテストに合格するコンピュータは、チェスで名人を凌ぐコンピュータと同様に、それ以外のことには大して役立たない。

 人間の知能は、数学の問題を解くため、チェスを指すため、大量のデジタル情報を処理するために生まれたものではない。それは、ヒトという種が、進化の過程で、環境に適応し個体と種の生存を図るために(突然変異を通じて偶然に)獲得した様々な機能の一部に過ぎない。それが(やはり偶然)計算やチェスにも使えるようになった。このことは、「知能=計算能力」という考えが無意味である、あるいは間違っているということを証明するものではない。進化の過程で、突然変異を経て、ヒトは計算能力そのものを獲得したのかもしれない。だが、柔軟で環境適応能力が高く、その一方で誤りの多い人間の知能の働きを考えるとき、知能と計算能力を等置するだけでは、その本質を捉えきれないように思える。

 知能の本質を捉えるためには、人が生命体であり、生命を維持する身体を有していることを考慮に入れる必要がある。コンピュータやロボットには生命はない。「2001年宇宙の旅」のスーパーコンピュータHALは驚異的な(広義の)計算能力を有するのみならず、感情を持ち、死(機能停止)を恐れているように振る舞う。それでもHALには生命はない。中央装置のパッケージを抜去することでHALは機能停止するが、パッケージを再挿入し再起動すれば復活する。生命は不可逆的で再生できない一回性をその本質とする。そして知能もその本質において再生不可能な一回性を有する。それゆえHALは生命体ではなく、その驚異的な能力にも拘わらず「知能を持っている」と言うことに意味があるかどうかすら分からない。

 先に述べたとおり、知能を持たせるには人間と同じ有機高分子からなる生命体が必要であるとアプリオリに推論することはできない。人間と同等の知能を半導体素子や金属のような無機物から構成されるコンピュータやロボットで実現することは不可能だと決めつける訳にはいかない。しかし、知能=計算能力と考え、ソフトウェア開発を人工知能研究の中核に据えている限りは、その発展には限界があるように思える。変化していく環境、その中で、自律的に試行錯誤し学習し、ソフトウェアのみならずハードウェアを自ら作り変えることができるようなロボット、それが必要だと推測される。だが、もちろん、そのようなことは容易ではなく、結局のところ、自然環境と巧みに相互作用する有機高分子からなる生命体が不可欠だということになるかもしれない。しかし、個人的にはそうではないと想像している。


(H26/12/14記)


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