井出 薫
マルクスは、労働者は労働を売るのではなく労働力を売ると考えた。マルクスは労働価値説(「商品の価値は、それを生産するために必要となる社会的平均労働時間」とする説)を取り、また等価交換(商品交換では、等しい価値のものが交換されるとする考え方)(注)を仮定するため、労働者が労働を売るとしたら、資本家は利潤、利子、地代の源泉である剰余価値を獲得することは不可能だと論じる。 (注)但し、マルクスは資本論第3部「資本主義的生産様式の総過程」で、資本主義社会では、等価交換ではなく、生産価格(費用に平均利潤を加えたもの)で商品は売買されると論じている。等価交換を想定する資本論第1部と第3部の論述との関係は、マルクス経済学では、以前から大きな問題とされている。但し、本稿ではこの問題については議論しない。また、この問題は本稿での議論には影響しない。 労働価値説と等価交換を正しいとすると、労働者が労働を資本家に売るのであれば、8時間の労働をした労働者はその対価として8時間労働分の賃金を受けとることになる。労働価値説では商品の価値は労働時間で規定され、生産手段(道具や機械などの生産用具、原材料や燃料、半製品など)から新しい価値は生まれないから(注)、資本家は剰余価値を得ることができない。 (注)生産手段から新しい価値が生まれるとすると、労働価値説は成立しない。なぜなら、労働をしない生産手段が新しい価値を生み出すのであれば、商品の価値は労働時間だけでは決まらないことになるからだ。 だから、マルクスは、労働者が労働を売るのであれば資本家は剰余価値を得ることができず資本主義は成立しないと考える。そして労働価値説と等価交換が正しいとする限り、マルクスは正しい。そこで、マルクスは、労働者は労働ではなく(労働の源泉である)労働力を売ると考えれば問題が解決することに気が付く。労働者が、労働力を一つの商品であるかのように売るのであれば、利潤をもたらす剰余価値が生み出される仕組みが成立する。商品の価値は商品の生産に必要な労働時間で決まる。だとすると商品としての労働力の価値も、労働力の生産に必要な労働時間で決まる。労働力の生産−生産というよりも再生産という方が適切であるが−に必要な労働時間とは、生活必需品の生産に必要な労働時間だと考えてよい。それがあれば労働者は生活ができ生産現場で労働することができるからだ。一人の労働者が生きていくために必要となる必需品の生産に必要とされる労働時間は4時間だとしよう。この場合、労働力の価値は労働時間4時間分(これを必要労働という)に相当する。ところが、この労働力という商品は他の商品とは全く異質な性質を持つ。それは他の商品と異なり自ら労働する。それゆえ、労働力は適切な環境が整えば、その(再)生産に必要な労働時間(今の例では4時間)を超えて労働することができる。マルクスは必要労働時間(4時間)を超える労働を剰余労働と呼ぶ。たとえば8時間働けば4時間の剰余労働をしたことになる。商品の価値は生産に必要な労働時間だから、等価交換の原則に基づき、労働者が受け取ることができるのは必要労働時間4時間相当の賃金に限られる。その結果、労働者が生み出した剰余労働4時間分は必然的に資本家の手に入る。資本家の手に入った剰余労働は、商品の流通過程で剰余価値として結実し、それが莫大な不労所得を得ている支配階級(産業資本家、金融資本家、大土地所有者)の利潤、利子、地代へと分配される。 これが壮大な体系をなすマルクスの資本論の土台をなす剰余価値生産の理論だ(注)。労働価値説と等価交換を正しいとする限り、この剰余価値生産の理論の正しさは疑いようがない。 (注)剰余価値生産には、労働時間の延長又は労働密度の強化(実質的な労働時間の延長)による絶対的剰余価値生産と、技術革新などで可能となる必要労働時間の短縮による相対的剰余価値生産の二つがある。なお、本稿では詳細は省略する。 だが、マルクスの議論には疑問が残る。マルクスは、資本主義が成立するための条件の一つとして、二重の意味で自由な労働者の存在をあげる。奴隷制や農奴制のような身分制度が解体し、自分の労働力を自由に処分でき、その一方で生産手段を奪われ生産手段から自由となっている、この二重の意味での自由な労働者の存在が資本主義の不可欠な要件であるとマルクスは指摘する。労働者は生産手段を持たず、それゆえ、労働力を売るしかない。その意味では比喩的には賃金奴隷のような存在ではある。しかし、身分制度が解体しており、法的権利という面では、概ね、労働者は資本家と対等で、賃金など労働条件が良い働き場所を選ぶことができる。また好景気のときには賃金が上昇し貯金ができることもある。才覚に富み機会に恵まれた労働者は資本家へと這い上がることもできる。つまり、マルクスにとって、そして事実としても、資本主義における労働者は全般的に不利な状況にあるとは言え、奴隷ではない。労働者は、契約の自由を持つ経済的主体として資本主義社会に存在する。 だとすると、労働者は労働力を売るというマルクスの主張には疑問が生じる。売ることができるものは、自分から切り離すことができるものに限られる。所有物(机、パソコン、携帯など)、知識や情報、サービス(他人の行為の代行、相手の心身への働きかけ)など、自分から切り離すことができるものだけを人は売ることができる。しかし、労働力は労働者本人から切り離すことができない。だから、労働力を売るとは自分そのものを売ることに等しい。しかし労働者は奴隷ではないから、自分そのものを売ることはできない。そもそも奴隷は主人の持ち物であり、経済主体ではなく、取引するのは主人の側であり、奴隷は売買の結果、ただ物として別の主人の手に渡るに過ぎない。 要するに、資本主義における労働者は奴隷とは全く異質な存在で、経済主体として振る舞う。労働者は、契約に基づき、指定された時間内、資本家の指示に従い働くことに同意し、それを実行する。従って、労働力を売ると言うよりは労働を売っている、あるいは労働の成果を売っていると言うべきだろう。もし労働者が労働力を時間限定で売っているとすると、つまり時間が限定されているだけでそれ以外の点では奴隷と同じだとすると、労働時間内に過酷な労働を課され病気になっても労働者は文句を言えないことになる。労働力を売った以上、労働時間内は生かすも殺すも資本家の意のままということになるからだ。しかしマルクスが資本論を執筆している時代でも、現代とは比べものにならないくらいに劣悪な環境下で労働者は働かされていたとは言え、労働者の権利を保護しなくてはならないという思想はすでに広く普及しており、労働者を保護するための様々な法や組織などが存在していた。だから労働力を売っているという見方はやはり無理がある。 だからと言ってマルクスが間違っていたとは言えない。マルクスは、労働力は本来商品とはなりえないこと、商品とは全く異質なものであることを理解している。労働力商品化(労働者は商品として労働力を売る)は理論的な抽象物であり、マルクスの意味での資本(=「自己増殖する価値体」という意味での資本)の生産を科学的に解明するためのモデルと考えることが正しい。そう考えれば、マルクスは間違っていない。その場合、「労働力を売る」という表現は、資本論という学問体系における論理的なモデルだと言うことになるからだ。その代わり、これはあくまでも理論的モデルでの表現であり、現実の経済活動を表現するものではないことを忘れてはならない。 ところが、マルクス「資本論」には、「労働力を売る」ということが、理論的抽象ではなく、現実そのものであるという印象を読者に与えるようなところがある。そのため、マルクスの読者の中から、事実問題として労働者は労働ではなく労働力を売っているのだと考える者が出てくる。そして、これが単なる理論的な問題では留まらなくなってしまう。レーニンを中心とするロシア革命以後、多くの地域でマルクス主義を旗頭とする共産主義国家が誕生した。しかし、いずれも、労働者を救済するはずの共産主義が、寧ろ資本主義社会以上に過酷な労働を課すことになる。その背景には、「(資本主義社会では)労働者は労働力を売る」という思想から、「労働者=労働力の所有者」という不適切な観念が生まれ、「労働者は、共産党の指導の下、その労働力を社会に提供し、共産主義社会実現のために最大限の努力を払って働かなくてはならない。」というスローガンへと行きつく。その結果、労働者はしばしば自由を奪われ、労働は過酷なものとなり、その割には経済の発展に結び付かない。そして、その結末はソ連・東欧共産圏の崩壊であり、中国やベトナムの改革開放路線・市場経済への転換だった。これを専ら「労働力を売る」という思想の帰結だと論じるのは明らかに間違いだが、それでも影響が少なくなかったのは事実だと考えてよい。 近年、先進国の慢性的なデフレなども手伝い、世界的に、マルクス「資本論」の見直しが進んでいる。事実、現代の資本主義は、マルクスの予測どおりに「利潤率の長期低下傾向」(資本論第3部)に陥っているように見える。他の論考で述べたとおり、マルクス「資本論」には多くの欠点がある。(本稿では説明を省略するが)利潤率の長期低下傾向に関する議論も完全に正しいとは言い難い。だが、それでも、マルクス資本論は、現代資本主義の様々な病理を解明するうえで、欠かせないテクストだと言わなくてはならない。ただ、資本論というテクストは、未完成であり(第2部、第3部はマルクスの遺稿をエンゲルスが編集。特に第3部は最後の部分が書きかけで終っている)、またマルクスが必要以上にヘーゲル的な論述を採用したことも手伝い、読者を混乱させる箇所が多い。「労働者は労働力を売る」という表現は、マルクス「資本論」を読んだことが無い者ですら口にすることがある。それくらい普及している考えだと言える。しかしこの表現が意味するものは理論的抽象であり、それを実体論的に捉えると誤りに陥る。資本論には、こういう箇所が少なくないことを、マルクスをこれから読もうと考えている読者に注意しておきたい。 了
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