☆ 「疑う」とはどういうことか ☆

井出 薫

 デカルトは全てを疑って、最後に、絶対確実なものとして、「我思う、ゆえに、我在り」に達した。「我」が存在することは確実であり、神の存在ですら、我の存在の明証性から演繹しないとならないとデカルトは主張する(注)。ここに近代の絶対的な主体としての「我」が確立し、近代哲学は「我」を核とする学として、その後展開されることになる。
(注)但し、これは認識論的な次元での話しであり、存在論的には、神は全知全能、最高善であり、人間を含む全存在の主催者かつ創造者であることをデカルトは完全に肯定する。

 だが、デカルトの主張は多くの点で疑問がある。まず「我思う」から「我在り」を導出するところに疑問がある。これが成立するためには、「我」と「思う」が分離可能な存在として表象される必要がある。そもそも疑いようがないものがあるとしても、「「我」が「思う」」ではなく、「思う」だけが疑いようがないのではないだろうか。「我」は一次的な存在ではなく、「思う」から、「我(主体)」、「対象(客体)」がそれぞれ二次的に導かれる、こういう風に考えた方がより正確と思える。事実、フッサールは、彼の哲学的思索=現象学において、そのような方向で考察を行っている。

 しかし、「思う」を第一次的なものとしても、全ての疑問は解消しない。「思う」ということが本当に確実だと言えるのはどういうときか。それについて、デカルトもフッサールも明らかにしていない。無前提に内省することを通じて、そこに確実なものが見出せると言うのだが、そのようなことができるとは思えない。なぜなら「無前提に」ということがありえないからだ。確かに絶対確実な根源的存在を見い出すためには、「無前提」であることは欠かせない。前提があれば、それがより深い原理となる。たとえば、Aを前提するとき初めて「我思う」が確実になるならば、「我思う」は第一原理ではなく、Aが第一原理となる。

 「我」であろうと、「我思う」であろうと、「思う」であろうと、「在る」であろうと、全て、それらを哲学的な原理として提示するためには、「言葉」の存在とその言葉が人々の間で流通しているという事実が不可欠となる。つまり、あらゆる哲学的思索に絶対に欠かすことができない前提として「言葉」がある。そして、それが継承され存続するためには文字(書き言葉)が不可欠な存在となる。このことは、先の仮定、無前提に内省する、無前提に思索することが不可能であることを示している。それゆえ、「我思う」は決して無前提に導かれるものではなく、言葉の存在、言葉が流通することを前提にして初めて導かれるものでしかない。それゆえ、それは第一原理とは言い難い。

 そもそもデカルトの探究の手段である「疑う」ということは如何にして可能なのだろうか。疑うことが可能であるためには、言葉が必要だ。「何かを疑う」、「何かを信じて疑わない」こういう表現が意味を有することが「疑い」を意味あるものとする。さらに、疑いが言葉において初めて意味をなすことから、疑うためには、疑いを免れているものが存在しなくてはならないことが帰結する。時計の時刻が合っていないと疑う時に、その疑いが意味を持つためには、時計が存在していることが前提となる。時計の存在が疑わしいのであれば、時刻を疑うことは意味がなく、まず時計の存在を検証する必要があるからだ。また時計の存在を疑うのであれば、疑う理由を示す必要がある。「あの時計に見える物は単なるアクセサリーに過ぎない可能性がある、なぜなら先ほどから秒針が動いていないし、動きそうもないからだ。」などという理由を示さないとならない。そうでないと疑うことの意味が分からない。ただ「幻覚の可能性がある」と言うだけならば、「なぜ幻想だと思うのか、その根拠は何か」と問われる。このように疑う理由が明確な時は、様々なことが(その時点では)疑いを免れている。そうでないと時刻と時計の例のように無意味な疑い(疑っているとは言えないもの)になる。

 このように、疑うこと、また疑いの末に確実なものを見い出すことが可能であるためには、言葉が存在しそれが人々の間で流通していること、疑いを免れた者が存在していること、この二つが不可欠の条件となる。だがこのことは、どのようなものであれ、疑う余地がないほどに確実な存在などないことを意味している。なぜなら、どのような存在であれ、常に何か別のものの存在を前提としているからだ。

 ただし、このことは、疑うことが無意味であることを意味しない。ただ、「疑う」ためには、疑う根拠が必要だという、ある意味、極めて常識的なことを示している。


(H26/10/5記)


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