☆ 数学の哲学〜すべて決っているのか ☆

井出 薫

 論理学、あるいは数学の体系は、公理、推論規則、定理の3つからなる。公理は証明なしで真理とされ、定理は公理や他の(公理又は他の定理から演繹規則により導出された)定理から演繹規則により導かれる。公理と演繹規則の正しさは一般的に直観と体系が無矛盾であること、つまり「Aかつ非A」のような矛盾を含まないことで正当化される。但し、直観はしばしば当てにならないし、無矛盾であることを証明することは容易ではない。どんな数学の体系でも、その内部では無矛盾であることを証明できないことは、ゲーデルの第2不完全性定理として知られている。それゆえ、論理学や数学は、その明証性にも拘わらず、それが本当に真なのかは実のところよくわからない。ただ、圧倒的な証拠、数学が他に比べるものがないほどに優れた道具として、学問において、そして実生活や産業活動において絶大なる威力を発揮し、文明を築き上げる土台となっているという現実が、数学や(数学の基礎的な一分野とも言える)論理学が真理であることを示唆している。だがそれが本当にそうなのかは分からない。
(注)現実の様々な数学分野を調べてみると、公理と演繹規則から全ての定理が導かれている訳ではないことが容易に分かる。微分幾何学、位相幾何学、関数解析などを、全数学の基礎とも言うべき自然数論に還元することは現実的にはできない。自然数論に近い代数学でも、自然数論に還元される訳ではない。各数学分野にはそれぞれ固有の原理や方法が存在して、単純に少数の公理に還元できる訳ではない。

 しかし、本稿で取り上げる問題は、全数学が特定の公理体系から演繹できるかという問題ではない。私たちが関心を持つのは、もし公理と演繹規則が与えられたならば、そこから証明される全ての定理(通常、無限にある)は、あらかじめその時点で存在すると考えてよいのかという問題だ。つまり、公理と演繹規則が定まった時点で、すでに全定理は存在し、ただ、まだ私たちが定理の証明に成功していないだけだと考えてよいのか、そうではないのか、さらに言えば、公理と演繹規則自体が、それが発見(発明?)される前から存在すると考えてよいのか、そうではないのか、これが本稿で検討する課題となる。

 発見されようと、されまいと、証明されようと、されまいと、公理や定理はすでに存在しており、それは発見されることを待っているだけだと考える者が多い。数学界ではこのような考えは、数学的プラトニズムと呼ばれることがある。そして、数学的プラトニズムは多くの数学者から支持されている。小川洋子氏の傑作「博士の愛した数式」に登場する記憶障害を持つ数学博士も数学的プラトニズムを信奉している。

 ここで、別の例を挙げてみよう。円周率πは無理数で、循環することなく、小数点以下無限に数字が続いていく。現在のところ小数点以下何桁まで計算ができているのか知らないが、未発見の数字が無限に残されている。この状態は永遠に変わらない。さて、ここで、計算が済む以前から、任意の小数点以下x桁の数字は決っていたと言うことはできるだろうか。これも公理と演繹規則が定まった時に全ての定理が定まっているのかという問題と同じ種類の問題だと言ってよい。これも多くの者は、まだ知らないだけ、計算が済んでいないだけで、その数字は決っている、やはりこちらも発見されるのを待っているだけだと言うだろう。ほとんど全ての数学者が同じように考える。この辺りの感覚は専門家でも一般人でもさほど変わるところはない。数学者であろうとなかろうと、同じ常識を持つ市民だということなのかもしれない。

 だが、本当にこの常識は正しいのだろうか。「論理哲学論考」を書き上げた頃の若きウィトゲンシュタイン(俗に言う、前期ウィトゲンシュタイン)は、この常識を一般市民と共有していた。論理法則とはトートロジー(恒真命題)であり無意味である、とウィトゲンシュタインは主張する。更に最後には、自らの著作「論理哲学論考」自体が無意味だと宣言し、本著作を克服してそれを投げ捨てることを推奨する。このような考えが成り立つのは、先に取り上げた市民の常識をウィトゲンシュタインが共有していることを意味する。そうでなければ、論理法則を無意味であると断定することはできない。なぜなら公理と演繹規則から定理を導出することが無意味であると断定できるのは、演繹がなされる以前から、すでに定理が公理と演繹規則に含まれていると考えているからだ。さもなければ、証明は決して無意味ではないことになり、公理と演繹規則から定理を証明することは、人間の認識を拡張する有意義な試みとなる。しかし、「論理哲学論考」のウィトゲンシュタインは、これを否定し、論理学の全定理は単なるトートロジーであり、人間の認識を拡張するものではないと主張する。

 しかし、やがて、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の主張は間違いであると考えるようになる。一旦は捨てた哲学の道へと舞い戻ったウィトゲンシュタイン(俗に言う、後期ウィトゲンシュタイン)は、公理と演繹規則から定理を導くこと、あるいは円周率πの小数点以下の数字の計算を続けることは決して無意味ではなく、寧ろ、そういう試みこそ数学において重要だと考えるようになる。公理と演繹規則はそれ自身何も語っていないし、何も意味していない。予め定められた定理など存在しない。円周率πは、計算されたところまでに意味があり、その先はこれから計算することで、初めて意味を持つ。ウィトゲンシュタインはこのように考える。

 このことをウィトゲンシュタインは、数列を例に挙げて説明する。「2から順に2を足していき数列を作りなさい」この答えは、当然「2、4、6、8、10・・・100、102、104、106・・・」という数列になる。ところが、ある男が「・・・100、104、108、112・・・」という答えを書いたとする。私たちは彼に「あなたは間違っている」と言うだろう。しかし彼は反論する。「これで間違いない」と。私たちは、やがて、彼は「2を足す」ということを、「X+2:X<100、X+4:X≧100」と解釈していることに気が付く。彼の解釈は明確で、私たちのそれと遜色はない。確かに、その解釈に基づく計算規則は大多数の者にとって不自然で、実際そのような計算をする者がいるとは思えない。だが、もし居たとすると、その者は間違っているとは言えない。ただ私たちとは計算の遣り方が違うとしか言えない。そして、もしかしたら、この広大な宇宙のどこかに、彼の計算方法が広く通用している星があるかもしれない。さらに、ウィトゲンシュタインは、この例を拡大し、一般的に、規則は人の行為を決定しないことを論証する。それゆえ数学の公理と演繹規則がそこにあったとしても、そこから何が生み出されるかは、それが実際に計算されたり、証明に使用されたりするときに初めてわかることであり、始めから決まっていることではない。つまり、定理は導かれた時、初めて定理になる。

 そのことをウィトゲンシュタインは別の例を使ってより詳しく説明している。設計図に描かれた井戸の滑車は自分で動くことはなく、設計図に従って作られた井戸の滑車が回転する保証はない。しかし、人々は設計図上の滑車があたかも必然的に動き出すように錯覚する。たとえば、ヘーゲルの壮大な哲学体系もこの錯覚により成り立っていると言えるかもしれない。そのことをマルクスが認識し、ヘーゲルの概念弁証法的体系を実在論的、唯物論的な思想に解釈し直したと言ってもよい。また、ウィトゲンシュタインは教授を務めるケンブリッジ大学で、学生時代の(コンピュータサイエンスの創始者)チューリングと数学の哲学について論争し、チューリングが「矛盾した数学を使って建設した橋は落ちてしまう」と主張したのに対して、「矛盾を恐れる必要はない。矛盾があっても実用になる数学があり得る」という類の主張で反論する。常識的にはチューリングが正しい。しかし、数列の事例で示したことから分かる通り、数学の答えはそれを使うときに初めて明らかになる。それゆえ、矛盾を孕みながらも、その使用方法を変更することで、橋が落ちないように数学を使用することができる。矛盾した数学を使うと橋が落ちると危惧するのは、設計図の滑車が動くと考えるのと同じ錯覚だとウィトゲンシュタインは論じる。

 後期ウィトゲンシュタインの考えが正しいか、チューリングや前期ウィトゲンシュタインが正しいか、正直、どちらとも言い難い。数学と言えど、人間の社会的な営みの一つであり、そこから超越した場所にあるものではない。それゆえ、現実の証明、現実の計算が持つ意義は極めて大きい。だから、公理や演繹規則が定理を全て含むと考えるべきではなく、むしろ証明がなされたとき、あるいは計算がなされたときに、初めて、定理、計算値が出現すると考えるべきなのかもしれない。だが、その一方で、そのように考えると数学は極めて窮屈なものとなる。なぜなら、このような考えに立つと、無限大、無限小など数学で極めて重要な役割を果たす多くの概念が利用困難となるからだ。

 数学や論理学は、超越世界の真理ではなく、現実世界と関わるための道具として私たちの共同体に存在する。道具であるがゆえに、私たちが実際に使うことで初めて道具として役立つ。使われない限りそれは道具ではないし、猫や犬にとってはそもそも潜在的にすら道具ではない。しかし道具は現実世界の現実的なものであるがゆえに、人間の自由にはできないところが必ず存在する。箒や絨毯で空を飛ぶことは空想の世界では出来ても、現実世界では出来ない。「道具」が有する恣意性(道具と道具が果たす役割の間には恣意性がある。掃除のために箒を使うこともできれば、掃除機を使うこともできる。箒は人を追い出すことに使うこともできる、など)に着目すると、後期ウィトゲンシュタインの考えにはそれなりの説得力がある。しかし、道具とそれが関わる世界の持つ自然的性格(箒で空を飛べない、箸で大木を切り倒すことはできない、など)を考慮すると、チューリングや前期ウィトゲンシュタインの考えの方が合理的だと言える。要するに、公理と演繹規則が定まればおのずと定理は定まっていると考えることが有効な場合もあれば、定まっていないと考えることが有効な場合もある。ただ総じて言えば、数学とその使用の現実を考慮するとき、公理と演繹規則が定まれば定理は定まる、円周率の小数点以下の数字は全て決まっている、と考える方が実用的であるということは言える。


(文献)
 前期ウィトゲンシュタインについては、「論理哲学論考」(ウィトゲンシュタイン全集1、大修館書店、1975年)、後期ウィトゲンシュタインについては、「哲学探究」(ウィトゲンシュタイン全集8、大修館書店、1976年)、ウィトゲンシュタインとチューリングの論争については、「Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics, Cambridge, 1939」(The Univercity of Chicago Press、1989)を参照のこと。但し、ウィトゲンシュタインも、チューリングも、公理と演繹規則に、予め、全ての定理が包含されているか否かという主題で議論を行っている訳ではない。本稿の論考は、筆者が彼らの議論を援用して、独自に展開したものであることを記しておく。

(H26/9/15記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.