☆ カントの道徳 ☆

井出 薫

 カントは、道徳律は定言命令だと主張する。つまり、道徳律は「これこれの理由から、こうしなくてはならない」という性質のものではなく、無条件に「こうしなくてはならない」という義務だ、とカントは考える。

 これは、殺人を例にとって考えると分かり易い。

 「なぜ、人を殺してはいけないのか」こう問われると、案外、答えることが難しい。
 よくある回答は「君は殺されたくないはずだ。だから殺人は許されない。」というものだ。
 これは次のような推論に基づく。
(1)私は殺されたくない。
(2)私以外の者も、私と同じ人間である。
(3)1と2から、「私以外の人間も殺されたくない」が導かれる。
(4)人が嫌がることをしてはならない。
(5)3と4から、「人を殺してはならない」が導かれる。
 一見、筋の通った明快な論理に見えるが、かなり無理がある。

 (1)については、「別に殺されたって構わない」と考えている者が存在する。自殺をする者は、自分で自分を殺しても構わないと考えている、と言えなくもない。

 (1)は正しいとしても、(2)は相当に疑わしい。(2)は哲学では他我問題、他者問題などと呼ばれ、近代哲学の最重要問題の一つとして挙げられているが、フッサールなどの天才哲学者の優れた考察を以ってしても解決に至っていない問題として残されている。また、人によって趣味や信条は異なる。自民党の政策が正しいと考える者もいれば、共産党の主張が正しいと考える者もいる。巨人ファンもいれば、阪神ファンもいる。ごくマイナーだがヤクルトファンもいる。従って(2)の正しさは証明されていないし、そもそも正しいかどうかが疑わしい。

 仮に、(1)から(3)が正しいとしても、(4)の正しさにもはっきり疑問がある。たとえば、予防注射を子供が嫌がっているからと言って注射を止めることは正しいだろうか。犯罪者が「刑務所には行きたくない」と言ったら、放免してよいのか。(4)は普遍的な真理ではなく、状況依存の相対的な真理に過ぎない。

 さらに、(1)と(2)から(3)、(3)と(4)から(5)の推論にもいささか飛躍がある。

 この例からわかる通り、「人を殺してはいけない」を他の根拠から導き出すことはできない。「君は殺されたなくはずだ」以外の事実を持ち出しても、ここで展開した論理と同じように、その推論に無理があることを示すことができる。

 道徳規則(「人を殺すな」、「暴力を振るうな」、「嘘を吐くな」、「盗むな」、「人を苦しめたり、悲しませたり、悩ませたりするな」など)は、世界の事実から導かれるものではなく、それ自体で真(善)であり、論理的な根拠がなくとも人として従わなくてはならない義務である、これがカントの道徳哲学だと言ってよい。

 しかしながら、カントの主張は、功利主義とは明確に対立する。功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」のスローガンに示される通り、社会的な福利の増進をもたらすものこそが道徳律となるべきだと考える。つまり、カントと異なり、功利主義は幸福を増進するという世界の事実から道徳律を導く。功利主義はそれゆえ、カントの義務倫理に対して価値倫理だと言われることもある。そして、現代社会において最も影響力のある道徳哲学は功利主義だと言ってよい。多数決の原則は功利主義に基づく。また、功利主義ではないが、ヘーゲルの道徳観もカントとは異なる。

 もちろん、道徳哲学の優劣を多数決で決めることはできない。功利主義が支配的だからと言って、功利主義がカントの義務倫理に優るとは言えない。どの道徳哲学が正しいかの答えは誰も分からない。

 いずれにしろ、殺人を悪とする理由を問うときには、カントの考えが、一番説得力がある。功利主義では「悪い社会体制を倒すためには、闘争の過程で、何の罪もない子供が死んでもやむを得ない。」というような発想が安易に出てくる危険性がある。確かに現実には、戦争や暴動で人が殺されている現実がある。それを否定することはできない。しかし、戦争や暴力を否定し、平和と対話をとことん追求するのであれば、カント的な観点に立つことが必要だと思われる。

(注)但し、他の問題では、功利主義など他の道徳哲学がカントの道徳哲学に優ることが多い。詳細は別の機会に論じる。


(H26/9/1記)


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