井出 薫
アーレントは、その著「人間の条件」(注)で人間の活動的生活を、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)に分類した。労働は生きるために欠かせない存在ではあるが、生物学的欲求に基づくものであり、本来的に、人間の人間らしさを示すものではない。ところが古代ギリシャにおいては私的領域に留まっていた労働が、近代に至り公的領域を侵食し社会的領域を形成する。さらに、国民国家の興隆と共に、労働こそが至高の存在だと考えられるまでに至る。そして、そのことが全体主義を生み出す重要な要因の一つだったとアーレントは指摘する。アーレントは決して労働や労働者を軽視している訳ではないが、労働者による革命には極めて強い警戒感を抱いていた。 (注)「人間の条件」(ちくま学芸文庫、1994年)参照。 一方、マルクスは、資本主義における賃労働の実態を厳しく批判するが、労働それ自体は人間社会を支える現実的・物質的な土台であると同時に、人間の本質をなし、労働こそが自己実現の場だと考える(注)。そして、労働者の革命を歴史的必然だと主張する。 (注)たとえば、マルクスは、「資本論」で、生産現場と児童の教育現場を結合することを推奨する。児童は労働の現場を通じて成人となり、自らの能力を発揮できるようになる。この考えは20世紀の共産主義運動に大きな影響を与えることになる。 マルクスとアーレントでは、このように労働に対する評価が大きく異なる。しかし労働が自然的存在としての人間に根差すものと考えている点では二人に大差はない。ただ、アーレントが、労働が支える自然的存在を超えることで、人間は真の人間性を獲得すると考えているのに対して、マルクスは、人間は自然的存在であると同時に社会的存在であり、自然的存在としての人間を再生産する労働こそが社会の土台であり自己実現の場でもあると考えている。ここで、二人の思想の違いは何に基づくのか。単なる政治的な好みの違いに過ぎないものなのだろうか。 そもそも労働という概念は極めて多義的で、しばしば、その多義性が忘却されることで不毛な形而上学的論争が生じる(後述のマルクスの「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」の議論にも、それが幾らか現れている)。現代経済学でも、労働の概念は曖昧で、費用計算の不可欠な要素(=人件費)として解釈されているに過ぎない。確かに数理経済学においてはそれで十分だろう。しかし、労働概念を媒介として人間と社会を解明することを目指すのであれば、労働を計量化するだけでは問題の本質へ迫ることはできない。 マルクスは、労働には、抽象的人間労働という側面と、具体的有用労働という側面があると指摘する。この区分は便宜的なものに過ぎないように思えるかもしれない。特に、抽象的人間労働を価値(現象形態としては交換価値)と、具体的有用労働を使用価値と対応させ、労働の二重性と商品の価値の二重性を対応させるマルクスの議論は、ヘーゲル的思弁に過ぎないように思える。事実、マルクスはヘーゲルに近づきすぎており、その論理は必要以上に複雑で理解し難いものとなっている。しかし、労働の二重性には重要な意味がある。それは人間が自然的な存在であり、同時に社会的存在であるということを示している(但し、それは実体論的な二つの世界の存在を意味するものではない)。そして、ここにこそ「労働」の本質を理解する鍵がある。 この労働の二重性は、交錯する二つの類型の言語ゲームとして捉えなおすことができる。この二つの言語ゲームは自然的な存在としての人間と社会的な存在としてのそれを表現するものとなる。 しかしながら、ここで忘れてはならないことは、ただ2種類の言語ゲーム(「自然的存在としての人間を表現する言語ゲーム」と「社会的存在としての人間を表現する言語ゲーム」)だけが存在するのではなく、両極の中間と言うべき多数の言語ゲームが競合的に存在するということだ。だからこそ、自然的存在としての人間と社会的存在としての人間を統一的に思考することが可能となる。事実マルクスはそれを試みた。そして、アーレントの議論もまたそこに取り込むことができる。こうして、一見したところ大きく異なるマルクスとアーレントの労働に関する思想が、同じ場所で交錯する多彩な言語ゲームという共通の土俵の上で展開される二つの思想であることが見えてくる。つまり、二人の思想の違いは、この土俵の上で、どのような言語ゲームを展開するのかという問題に帰着する。それは決して単なる二人の政治的な好みの違いを表すだけのものではない。 次回はこの言語ゲームの在りようについて議論をする。 了
|