井出 薫
パソコンで資料を作成している。ふと蝉の鳴く声が聞こえる。そのとき蝉が鳴き始めたのではない。前から鳴いていたのだが意識に上らなかった。 人間の脳の情報処理と、コンピュータのそれを比較したとき、ノイマン型のコンピュータは直列処理をしているが、脳は並列処理をしていると言われる。パソコンのディスプレイを見ること、手を動かしパソコンのキーボードを操作すること、そして蝉の声を聞くこと、脳はこれらを同時に並行処理している。 以前から、コンピュータを脳に近づけるために、並列処理の技術が研究開発されてきた。ノイマン型のコンピュータは、加算器とレジスタで構成されるプロセッサとメインメモリ、外部メモリ、入出力装置、全体の同期を取るクロック装置からなる。プロセッサは一度に一つだけの処理(直列処理)をする。そこで複数のプロセットを一台のコンピュータに実装して並列処理をする。プログラムが複雑になるが、この並列処理で処理速度は飛躍的に向上し多数の課題を同時に処理できる。最近、IBMで一つのチップに複数プロセッサを実装することに成功しており、更なる処理速度の高速化が期待される。 さらに、コンピュータ処理に量子論の原理を取り込んだ量子コンピュータでは、一つのプロセッサで同時に複数の処理が実行可能となる。量子コンピュータが技術的に実用化可能かという大問題が残っているが、実現すれば飛躍的な処理速度の向上が期待できる。 人間に近い、あるいは人間を凌ぐコンピュータを実現しようとするとき、処理速度の向上だけでは無理で、メモリの大容量化が欠かせない。しかし、こちらも技術進歩は急であり、脳の容量を超える時代は遠くない。それでは処理速度を上げ、メモリを大容量化すれば、コンピュータは脳を超えるようになるのだろうか。 脳を凌ぐには、ハードウェアの改良だけではなく、ソフトウェアの改良が欠かせない。こちらはハードウェアの改良よりも難しい課題だが、チェスや将棋でプロを凌ぐソフトウェアが登場したことからも、決して解決不可能な課題ではないと推測される。 では、並列処理による高速化とメモリ容量の拡大、ソフトウェア技術の改良で、脳と同等又はそれを凌ぐコンピュータが本当に実現可能なのだろうか。読者や視聴者を感動させる小説やドラマの脚本を自力で書くコンピュータ、歴史上のどんな偉大な画家や作曲家よりも感動的な絵画や音楽を生み出すコンピュータ、数学や物理学の難問を解く、あるいは自ら問題を発見し解決するコンピュータ、こういうコンピュータを並列処理と大容量メモリ、ソフトウェアの工夫だけで実現できるのだろうか。将棋やチェス、囲碁などのゲームはルールが明確に決まっており、それが計算の一種であることは容易に見て取れる。必勝法を発見することができなくても、時間をかけて開発を進めれば人間を凌ぐコンピュータを作ることができる。だが芸術や科学でも同じことが成り立つかどうかは疑問がある。そこにも明確なルールがあり、コンピュータで実現が可能だという明確な根拠はない。 カントは科学についてはそれを認めた。カントは「どんな優れた科学者も天才ではない」と言う。なぜなら科学の発見は全て明確なルールの適用により実現されるからだ。つまり誰でもそれができる、努力次第という訳だ。ところが芸術ではそうはいかない。芸術の創造は明確なルールには還元できない。それゆえ、そこでは天才が必要となる。カントに言わせれば、モーツァルトは天才だが、ニュートンは天才ではないことになる。カントが正しければ、コンピュータは、科学の難問は全て解くことができるが、優れた芸術を生み出すことはできないことになる。コンピュータは明確なルールの集積体であるソフトウェアに制御されているからだ。 カントの考えが正しいかどうか分からない。芸術の創造にも明確なルール(=アルゴリズム)がある、ただ未だ誰もそれを知らないだけだと言う者もいる。また、逆に、科学研究を全てアルゴリズムに還元することは不可能だと考える者もいる。前者だとすれば、コンピュータはほとんど全てのことができることになる。しかし後者だとすると、コンピュータは、科学や芸術の世界では、人間の活動を補佐する道具の一つという地位に留まる。つまり、いつまで経ってもコンピュータがノーベル賞を取ることはない。 19世紀終盤から20世紀初頭に掛けて数学を論理学に還元しようとする試みがあった。しかしこの試みは失敗した。数学は単なる論理学ではなく、一つの公理系の上に全数学を構築することはできない。このことは、科学の研究も芸術と同じでアルゴリズムに還元できない創造性が欠かせないことを示唆しているように思える。つまりコンピュータは人を超えることはできない。 だが、そうではないと考える。冒頭に記した蝉の声に戻ると、脳は並列処理をしていると言うよりも分散処理をしていると言う方が相応しいことに気付く。そして、分散している各処理は相当程度に自律したものだと考えられる。なぜなら蝉の声に気が付くということが偶然的な出来事だからだ。人は意識的に、パソコン操作と蝉の声を聞くことの優先順位を制御しているのではない。偶然に、ある時はパソコン操作に集中し、ある時には蝉の声に注意が向かう。それぞれの処理が完全に独立したものではないことは間違いない。完全に独立していたら脳は心身の活動を統制することができない。おそらく統合失調症患者は、何らかの原因で、その統制ができなくなっている。そのため、それぞれの処理には全く問題がないのに言動が不自然となる。統合失調症患者の知能は健常者と比較して低くない。脳の不可逆的な器質的変化が認められる認知症患者とはこの点で決定的な違いがある。だから快癒すれば統合失調症患者は健常者と同等あるいはそれ以上の能力を発揮する。 統合失調症の可能性は、脳の働きが、分散処理、分散制御であることを強く示唆する。だから並列処理で高速化し、メモリを増強するだけでは、コンピュータは脳に近づくことはできない。ネットワークを介した分散処理を通じて初めてコンピュータは脳に近づく。そして、分散処理するネットワークは、単純なアルゴリズムとは異なる機能を実現することができるように思える。なぜなら、ネットワーク化で、偶然と言う要素を取り入れることができるからだ。そして、蝉の鳴き声に突然気が付くように、脳は偶然の要素を常に受動的に取り入れている。そして、その仕組みは解明されていないが、それを有効活用している。 人は自然を超越しているのではなく、自然の中に、周囲と絶え間なく相互作用をする一部分として埋め込まれている。だから、自然の中で生きていくためには、自然の偶然的な揺らぎに対して、その影響を取り込みながら、全体統制を維持できる機能を具備することが不可欠となる。そして、脳は長い生物進化の過程でそれを実現した。そこに在るものも、やはりある種のアルゴリズム、明確なルールだと考えられる。ただそこには偶然という要素が極めて重要な要件として存在する。それをコンピュータに取り入れることは容易いことではない。しかし、ネットワークを介することで、つまり、媒介者を置くことで偶然的な事象をそこに取り入れることができる。 とは言え、現在のコンピュータネットワークとそこで使われている技術では、このような偶然的な事象はネットワークの正常性を損なう要因にしかならない。そこで起きることは、大体において、システムダウン、ネットワークの輻輳などの不具合だ。さもなければ一時的なエラーで済むが、その代わり、何も有益なものをもたらさない。だから今のコンピュータネットワークでは脳に近づくことはできない。 課題は偶然的な事象を有効活用する方法だ。おそらく人はそれを明確なルール、アルゴリズムとして表現することはできない。だが、それでも、そこにはアルゴリズム(のようなもの)があり、人はそれを(無意識のうちに)受動的又は能動的に学んでいる。それをコンピュータにも、ネットワークを媒介させることで、実現することができると考えられる。 科学や芸術が明確なアルゴリズムに従うものかどうか分からないにも拘わらず、科学も芸術も目覚ましい進歩を遂げてきた。つまり、私たちの脳はアルゴリズムを知らずとも、合理的な科学や創造的な芸術を生み出すことができる。同じように、(原理的には)私たちはアルゴリズムが分からないままに、コンピュータネットワークを創造的な存在者へと飛躍させることができる。勿論その道程は長い。現在のプログラム制御型のコンピュータとは全く異質なコンピュータアーキテクチャーが必要となるのではないかと予想される。そのためには、おそらく、プログラムを書いて、プログラムでコンピュータの動作を制御するという現在の手法から抜本的な発想の転換が必要となる。だがそれがどのようなものになるかは今のところ分からない。自走するコンピュータネットワークの中で、自律的な進化が起きること(第二段階の生物進化?)を待つしかないのかもしれない。自然環境の中にコンピュータネットワークを置き、直接周囲と相互作用させることも必要となる。だが、いずれにしろ、それらは実現可能であり、試みる価値がある。ただ、それが実現したときに、人間社会に幸福をもたらすかどうかは定かではない。 了
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