☆ アーレント ☆

井出 薫

 アーレントはハイデガーの愛弟子で、一時期愛人でもあった。ハイデガーがナチに関与したことで、アーレントはハイデガーと決別し、ユダヤ人に対する迫害を逃れてアメリカに渡り、その地で後世に残る偉大な著作を多数残している。

 決別したとは言っても、アーレントの著作にはハイデガー哲学の影響が色濃く漂っている。彼女の主著で、おそらく最も多く引用される「人間の条件」は、ハイデガーの教えを受けていなければ書くことができなかった。

 「人間の条件」でアーレントは、人間の能動的活動を、労働、仕事、公共的な活動に分類し、その条件として、人間の生命、世界性、複数性(多数性)を挙げる。そして、労働を最も低次元の活動とし、公共的な活動を最高位に据える。ナチが登場する歴史的・社会的背景を詳細に分析し、ナチとナチが生み出された背景を徹底的に批判したアーレントの著作は、ナチへのコミットを示唆する箇所が含まれる「存在と時間」を主著とするハイデガーのそれとは大きく趣が異なる。しかし「人間の条件」で語られる能動的活動の3つの類型とその分析・評価は、「存在と時間」において人間存在を「世界=内=存在」として捉えるハイデガーの思想なしにはありえない。日常生活に埋没し無自覚で怠惰なダス・マン(中性名詞として表現された低次元の人)から、生の有限性を先駆的に自覚した実存としての人間への昇華、これはハイデガーが主著「存在と時間」で目指したものであるが、アーレントの「人間の条件」も同じ思想的傾向を有している。また、そこで使用される用語や叙述法は、ハイデガーのそれに大きく依存している。こうして、アーレントは、ナチを徹底的に批判し人々が二度と同じ過ちを犯さないための思想と体制を模索しながらも、ナチにコミットし終生その事実を克服できなかったハイデガーの思想圏を抜け切れていない。そこにアーレントの思想の矛盾や限界がある。

 このことは、昨秋日本でも公開され好評だったドイツの女流監督トロッタの映画「ハンナ・アーレント」にも描かれている(注)。本作は、ナチの主要人物の一人、アイヒマン裁判の取材記事で多くのユダヤ人やアメリカ社会から非難を浴びたアーレントが、批難中傷に屈することなく自身の信念を貫き真実を伝えたことを讃える内容となっている。しかし、トロッタは手放しでアーレントを称賛しているのではない。アーレントの矛盾と限界も同時に描いている。アイヒマン裁判の取材記事でアーレントは「アイヒマンは怪物ではなく凡庸な役人に過ぎない」と指摘する。それがアイヒマン(さらにはナチ)を擁護しているものと誤解・曲解される。さらにアーレントは、ユダヤ人の中にもナチに協力した者がいたことを伝える。これがユダヤ人批判だとユダヤ同胞からの非難を巻き起こす。非難の声を気にする大学当局はアーレントに辞職を求める。しかしアーレントは拒否し学生の前で講演を行い、自分の真意を学生たちに伝える。「アイヒマンを擁護するのではない。アイヒマンは人間への重大な犯罪で、死刑に処されるのは当然。」、「しかしアイヒマンという人物は怪物ではなく凡庸な役人に過ぎない。」、「悪は凡庸である。」、「アイヒマンのような凡庸な者が思考不能に陥った時最悪の犯罪者になる。」、「ユダヤ人の中にもナチの協力者がいた(これらの者たちも思考不能に陥っていた)。」、「私は問題を、哲学的に、徹底的に考えた。」、「考えることの真の意義は善を悪から区別することだ。」大学当局者たちは苦々しい思いで席を立つが、学生たちは講演を終えたアーレントに惜しみない拍手を送る。この場面は本編の山場で、アーレントの真意を理解しない世間に対するアーレントの見事な勝利を示しているように見える。だが実はそうとばかりは言えない。彼女の旧友ハンスが講演を傍聴していた。ハンスを見つけてアーレントは喜ぶが、ハンスは言い放つ。「君は少しも変わっていない、何でも哲学にしてしまう・・・なぜユダヤの同胞を批判する・・今日でお別れだ、ハイデガーの愛弟子。」ハンスの非難は感情的で説得力のあるものではなく、アーレントの講演の真意を理解していない。しかし、ハンスの言い分にも一理ある。アーレントは講演で(哲学的に)徹底的に考えることこそが、悪への道を回避する方法だと主張している。だが、20世紀最大の哲学者と称される哲学的思考の王様ハイデガーはナチにコミットした。それも半端なコミットではなく、ナチの要請に応じて大学総長に就任し、(積極的ではなかったとは言え)ナチに批判的な人物を排除することに一役買っている。哲学的に思考することで、本当に悪を回避できるのか、ハイデガーの事例を見る限り、疑わしい。そして、おそらくアーレント自身がそれに気づいている。そのことを示す象徴的な場面がある。アーレントの生涯の友人、彼女が非難を浴びた時断固として彼女を擁護した女流作家マッカーシーとビリヤードに興じる場面で、マッカーシーがアーレントに何気なく尋ねる。「あなたが一番愛したのは誰、思考の王様(ハイデガーを意味する)。」、「勿論、ハインリヒ(夫)よ」とアーレントは答える。それに対して畳みかけるようにマッカーシーは質問する。「ではあなたにとって最も偉大な存在は。」、アーレントは答えることができない。ナチに対して、さらにはたくさんの友人がいるユダヤの同胞に対してすら、何ら臆することなく真実を突き付ける知性と勇気を持ちながら、ハイデガーに対するアーレントの態度は曖昧で、ハイデガーのナチ関与を有耶無耶にしていると言われても致し方ない。そのため、哲学的に徹底して考えることが悪を避ける道だとするアーレントの主張は十分な説得力を持っていない。映画のエンドクレジットで、「アーレントはその後も悪の問題を考え続けた」と記してあるが、これはアーレントが自分の主張が不十分であることを認識していた証拠だろう。

 しかしながら、アーレントが優れた哲学思想家であることは否定しようもない。哲学には、数学や物理学のような明確な論理や方法はなく、真偽を定める基準もない。それどころか哲学者同士で意見が一致することすらほとんどない。個別科学の発達した現代、宇宙、地球、生命の構造や歴史を哲学に尋ねる者はいない。経済政策を哲学に求める者もいない。晩年のハイデガーが示唆している通り、哲学の住処はどんどん狭まっている。だが、そのような状況の中でも哲学は意義を失わない。悪の問題は、哲学の問題である以外にはないからだ。確かにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など優れた文学作品は悪の問題を提起する。だが文学には限界がある。物語をどこかで終らせないといけない。だから文学は問題提起以上に前に進むことはできない。その先は、哲学に宿題として残される。そして、正にその宿題を最後まで考え抜いた哲学者の一人がアーレントだった。その哲学は決して完全なものではなく、多くの矛盾や限界を含む。しかし、だからこそ、哲学的探究と議論がこれから先も続いていく。アーレント自身がおそらくそれを望んでいた。議論が一つの思想に集約され、批判や異論が抑え込まれたとき、おそらく悪が始まる。議論を続けること、異議を申し立てること、反論すること、再反論すること、この終わることなき論争の場を生み出し維持すること、これこそが現代における哲学の最重要の使命となる。そして、アーレントは現実にそれを実行した稀有な哲学思想家だった。たとえ、その思想に多くの限界や矛盾があったとしても、彼女の思想と実践は依然として極めて重要な現代的意義を有する。


(注)映画「ハンナ・アーレント」の北米版のDVDとBD(ブルーレイディスク)が、アマゾンなどで入手することができる。但し、(当然のことながら)日本語の翻訳・字幕はなく、北米のリージョンコードを読めないDVDプレイヤーでは再生ができないので注意が必要。日本語版のDVD、BDは8月に発売予定。

(H26/7/7記)


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