☆ 「事実」とは何か ☆

井出 薫

 「事実」とは何か。この問いに答えるのは容易ではない。「私が昭和に生まれたのは事実だ。」、「事実、彼はこの時計を持ってきた。」、このように「事実」という言葉は様々な場面で使用され、それを理解することに苦労することはない。「事実」の意味は誰もが分かっている。それなのに「事実とは何か」と問われると答えに窮する。

 「事実と規範」という区別がなされることがある。20世紀を代表する法哲学者の一人、ケルゼンは両者を峻別し、さらには規範を法規範と道徳規範に分け、法学の対象を法規範に限定する。ケルゼンによれば、それにより法学は(純粋法学という名の)科学として確立する。ケルゼンの考えは参考になるが、事実と規範の関係は明らかにはならない。規範が事実と異なるのは真実だとしても、如何なる規範も事実があって初めて規範として確立する。人々が、規範を守るのは、教育現場や生活の様々な局面で、その重要性を事実として認識することに基づいている。暴力行為に対する嫌悪感、嘘を吐くときの疾しさ、違反したときに受ける罰、こういう事実を体験することを通じて、規範を守るべきであることを人は悟り、日々、それを再確認する。規範を事実に、事実を規範に還元できないとしても、両者は独立して存在するものではない。だが、そのことは容易に理解されるにしても、事実が規範と一線を画することもまた真実で、依然として「事実」の意味とその位置づけは解明されないままに留まる。

 ケルゼンと並び法実証主義の代表的な存在と目されるハートは、言語行為論のオースティンや言語ゲームのウィトゲンシュタインの哲学を参照しながら、法を一次ルールと一次ルールを制定・廃止・承認する二次ルールの統一体として捉える。そこでは、ケルゼンでは峻別されていた事実と規範の境界線は流動化され、事実と規範を共に言語ゲームという枠組みの中で捉えることが可能となる。だが、これにより新たに問題解明の道具が得られるにしても、それでも「事実」の意味が解明される訳ではない。

 「事実」は、ときには「真実」と同じ意味で使用される。本稿で挙げた最初の例「私が昭和に生まれたのは事実だ。」の「事実」は「真実」に読み替えても意味は変わらない。だが常に「事実」を「真実」に等置することはできない。二番目の例「事実、彼はこの時計を持ってきた。」の「事実」を「真実」に置き換えるといささか違和感がある。この文の「事実」は、「彼はこの時計を持ってきた。」という出来事を強調するために使用されており、真実とか虚偽とかを意味する性格のものではない。また「事実と規範」という表現は、「存在と当為(なすべきこと)」という表現と同じ意味を含むものとされることもある。かと言って、「事実」と「存在」を同一視する訳にはいかない。(「事実」と「存在」については後述する。)

 さらに「事実」と「もの」の対比が問題とされることもある。ウィトゲンシュタインの著書「論考」の冒頭から二番目の文章に、「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。」という表現がある。「太陽」(もの)と「午前六時に太陽が東の空から姿を現す」(事実)が異なることは容易に分かる。しかし、目に見たり、聞いたりすることができず、ただ様々な実験データからその存在が示唆されるだけの電子のような「もの」になると、「もの」と「事実」の違いは明確ではなくなる。特に、「感覚与件」を認識の出発点とする実証主義的な哲学では両者の違いは曖昧になる。だからこそ、実証主義的な哲学の流れの中で思索していたウィトゲンシュタインは「世界は事実の総体だ」と言うことができた。

 「事実」という言葉の意味を問うことがそもそも間違いなのだと指摘する者がいるだろう。「言葉は文の中で初めて意味が定まる。より厳密に言えば、言語ゲームの中で初めてそれぞれの言葉の役割が決まる。言語ゲームを抜きにして、言葉の意味を問うても答えはない。同じ言葉でも言語ゲームが異なれば、その役割や意味は異なってくる。そのことは、後期ウィトゲンシュタインやオースティンの哲学が物語っている。」こういう指摘が予想される。確かに、言葉の意味は、それが使用される文脈から切り離して議論することはできない。そのことは「事実」という言葉にも当て嵌まる。

 だが、この指摘が正しいとしても、問題は解決していない。なぜなら、「事実」という言葉は、「事実と規範」、「事実ともの」というような対比において、始めから読者が了解済みの言葉として使用されているからだ。法学においては、ケルゼンの例に示されるように、事実と規範が最初から独立の領域として定立されている。経済学においても、事実解明的なアプローチと、規範的なアプローチとが分けて論じられることがある。(たとえば、奥野、鈴木著「ミクロ経済学T」1985、岩波書店)これらの研究においては、「事実」という言葉の意味が、「規範」との対比において予め了解されていることが前提となる。ウィトゲンシュタインの「論考」における、「もの」との対比における「事実」においても同じことが成り立つ。

 こうして考えていくと、「事実」への問いには、ハイデガーの「存在」への問い(基礎的存在論)と通じるところがあることが分かる。「存在」は、他の言葉と同様に、その言葉が使用される文脈(あるいは言語ゲーム)を見ることで初めてその意味が了解されるものでありながらも、その根源性、原初性のゆえに、単独の問い(「存在」とは何か)へと向かわざるを得ない。「事実」は「存在」よりも射程が狭い概念ではあるが(注)、やはり根源的、原初的な概念として、「事実とは何か」という問いを回避できない。
(注)「存在」は「事実」の他に「もの」や「世界」を含む。

 それゆえ、「事実」もまた、その意味が予め了解されているとみなすしかない。だが、当然のことながら、どのように了解されているのかが問題となる。そして、これにより議論は振り出しに戻る。「事実」という言葉を使用する言語ゲームが生活においても、学問の世界においても問題なく機能し、社会の中で流通しているのだから、この問いに答えを与える必要はないと考えることはできる。(「「事実」とは何?」、「「事実」は「事実」だ、それ以上答えようがない。」という具合に。)だが、果たしてそれで良いのだろうか。「事実」に関する謎はないのか、謎はあっても解く必要がないのか。分からない。ただ、たとえ答えはなくとも「事実とは何か」という問いは探究する価値がある(と思われる)。


(H26/4/13記)


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