☆ ベンサム ☆

井出 薫

 書店の西洋哲学書のコーナーに行くと目立つのが、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガーの5人だ。これに、ウィトゲンシュタインとフーコーを加えて7人と言ってもよいかもしれない。たが、彼らに優るとも劣らぬ重要な哲学者でありながら、人気のない者がいる。その代表格がジェレミー・ベンサム(1748−1832年)だ。ミルという優れた後継者がいたからこそという面はあるにしても、ベンサムはカントやヘーゲルよりも遥かに大きな影響を現代社会に与えている。ところが、ベンサムは日本では人気がないらしく、翻訳書や解説書は少ない。名前すら「ベンサム」に統一されておらず、「ベンタム」と記載されることもある。ベンサムが日本で人気がない理由は色々と想像できる。ベンサムの思想は「最大多数の最大幸福」で代表されるように快楽的、世俗的であり、カントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論のような深遠さや重厚さに欠けると思われている。また、ベンサムが提唱したパノプティコン(一望監視施設)は現代世界の暗黒面(=テクノロジーの発達を背景とする非人道的な管理社会)を象徴する存在として取り上げられ批判されている。俗物的かつ反動的な思想家。ベンサムにはこういう悪評が付き纏う。だが、これは極めて偏った誤った評価だと言わなくてはならない。

 ベンサムに始まりミルが発展させた功利主義は現代人の常識になっている。正義を社会体制の土台に据えようとするロールズの「正義論」では、功利主義は批判の矢面に立たされる。だが理論的に幾ら功利主義を批判しても、現代人の生活や行動は極めて功利主義的であり、しかもそれは必ずしも悪いことではない。たとえば崖崩れで家屋が二軒倒壊して下敷きになった者がいるとしよう。手が足らず救助隊は二手に分かれて救助活動をすることができない。二軒ともすぐに救出しないと命が危ないと分かっている。しかし、どちらかを優先しなくてはならない。どうすればよいか。答えはより被害者が多い方を優先するというものになる。片方の家には1名、もう片方には10名が救助を待っているとしたら、まず10名の方から救助活動を行う。その結果、残り1名の命を救うことができなくても、救助隊を非難する者はいない。逆に1名の者を先に助けた結果、10名が死亡したら、救助隊は批判される。特にその1名が政府要人で、10名が無名の労働者だったとしたら、人々は不公平だと強く抗議するだろう。つまり功利主義的な考えや行動は現代人の常識であり、またそれは領主の命が一般庶民のそれよりも尊いとされる封建社会が過去のものとなり民主社会へと移行したことを象徴している。更に、現代経済学には功利主義が導入されている。自由な市場は資源の最適配分をもたらすと現代経済学は教える。これは単なる数学的モデルの帰結ではない。そこには明らかに道徳的なニュアンスがある。「だから自由な市場は優れている。規制は必要最小限にするべきだ。」というメッセージがそこには含まれている。また経済政策論で多用される費用便益分析は明らかに功利主義的な発想に基づいている。

 功利主義には、たとえ欠点があるとしても、現代の民主制や市場経済、そして人権思想を擁護する重要な基盤となっている。ロールズの正義論も功利主義を根底から否定するものではなく、正義という視点を重視することで、功利主義の欠陥を補正する議論だとみる方が正しい。ロールズが正義の2原理を導くために用いた「無知のベール」の思考実験では、望ましい社会体制を考える者たちを導くものは不幸を最小化しようとする配慮であり、それは功利主義的発想と変わらない。ロールズが批判したものは、経済的富が過大評価される社会や、少数者の権利が軽視される社会であり、功利主義そのものではない。そして、ベンサム自身、「最大多数の最大幸福」というスローガンが、少数者の権利侵害に陥る危険性があることを知っていた。アダム・スミスが自由競争至上主義者ではなく、国家の役割、徴税の必要、競争の弊害を認めていたのと同様に、ベンサムも自らが提唱する功利主義の限界を弁えていた。それゆえ、「ベンサムの哲学が正しいとすれば、99名の幸福増加量が1名の奴隷の幸福減少量を上回るのであれば、奴隷制度が容認されることになる。」という批判は全くの的外れと言わなくてはならない。ベンサムの思想は、全ての人々の自由の権利を認めたうえで、その範囲内での最大多数の最大幸福を追求するものであり、奴隷制を容認するものではない。

 悪名高いパノプティコンも、日本を含め、ほとんどの先進国で、防犯カメラが至る場所に設置されている現実を考えるとき、良くも悪くもベンサムの卓越した洞察力、先見性を証明している。そもそもベンサムは独裁社会や非人道的な管理社会を実現するためにパノプティコンを構想したのではない。囚人の効率的な管理のために構想したのであり、必ずしも非人道的とは言えず、適切に運用すれば囚人自身の利益に繋がる。現代では、病院の集中治療室や防災センターの集中監視室などにベンサムの発想が活かされている。確かに、パノプティコンには大きな危険が潜んでおり、それは同時にベンサムの哲学の危険性でもある。だがそれはベンサムの哲学の重要性を貶めるものではない。むしろベンサムの現代性を明らかにするものだと言ってよい。

 さらに、ベンサムは、功利主義的な観点から、動物の生存権(注)、同性愛者の権利、死刑廃止を主張しており、これらの点でも時代を先取りしている。
(注)話すことや推理すること、いわゆる知的能力を持つか否かが重要ではなく、苦しみを感じるか否かが重要だとベンサムは考える。この観点からベンサムは動物の権利を擁護する。これは知的障碍者にも健常者と同等の権利を付与するべきであるという主張の強力な根拠になりえる。これに対してカント、ヘーゲル、ハイデガーなどでは、知的能力が絶対的であり、知的能力で劣る動物や知的障碍者への権利付与には繋がらない。繋がるとしても、あくまでも健常者の好意や良識が、動物や知的障碍者への権利付与をもたらすという経路、つまり健常者の優越性に基づく上から目線による権利付与になる。

 共産主義運動が後退した現代、ベンサムの影響力は、最初に挙げた7名よりも遥かに大きい。アリストテレスが3段論法の発見者でも発明者でもなく、単に人々の思考方法を体系化しただけであるように、ベンサムもまた功利主義の発見者でも発明者でもなく、人々の考えや行動様式を体系化しただけだと言えるかもしれない。だがアリストテレスが偉大であるように、ベンサムも偉大だと言わなくてはならない。カントやヘーゲル、マルクスやニーチェを含めて全ての哲学者の哲学は、その時代の雰囲気と人々の考えや行動様式を体系化したものでしかない。哲学者は発明家ではなく、独創的な発見者でもない。時代を生き、それを表現した者たちを意味する。その意味で、18世紀中盤から19世紀前半、世界を支配していたイギリスという時代と地域で活躍したベンサムは現代においても最重要な哲学者の地位に留まっている。確かにベンサムは常識になっているがゆえに、ニュートンやダーウィンを読む必要がないように、ベンサムも読む必要はない。ベンサムを知らずともベンサム的に考え行動するための道具には事欠かない。それでも、現代という時代を考えるためには、ベンサムが現代に最も巨大な影響を与えている最重要な哲学者・思想家であることを忘れてはならない。


(H26/3/30記)


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