☆ 言葉という限界 ☆

井出 薫

 数学そのものを対象として研究する学問をメタ数学と呼ぶことがある。数学よりも高次な次元(メタ次元)から数学そのものを解析するという意味で20世紀前半様々なメタ数学的な理論が展開された。数学基礎論の最大の成果とも謳われるゲーデルの不完全性定理は、このメタ数学的な手法で証明される。数学の公理、演繹規則、命題などを形式化し、それ自身を研究対象とすることでメタ数学が始まる。ところが、このメタ数学の論理が、その対象である数学の論理と結局は同じ次元に回収され、その結果、不完全性定理が証明されることになった。メタ数学の言葉が数学の言葉に吸収されたと言ってもよい。言葉は、どんなに工夫し改造しても、それ自体が言葉になってしまう。数学という人工的な記号体系においても、その体系を完全に超えたメタという次元は自律しえない。
(注)物質界(フィジックス)を超えた次元という意味で、メタフィジックスという言葉がある。これは日本語では形而上学と訳される。古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスは形而上学こそが哲学だとした。19世紀後半以降、ニーチェ、ハイデガー、論理実証主義者などにより形而上学は攻撃されてきたが、それでも哲学は依然として形而上学的な傾向を脱していない。おそらく哲学にはそれが期待されているからだと思われる。

 不完全性定理は、通常、第一定理と第二定理に分けられる。第一定理は、どのような数学体系にも、GもGの否定(¬G、¬は否定記号)も証明することができないような命題Gが存在することを示す。この意味で、如何なる数学体系も不完全とされ、これが不完全性定理という名前の由来となっている。第二定理は、如何なる数学体系も、その体系内部でそれが無矛盾であることを証明することはできないことを示す。あらゆる学問は文字(書き言葉)と結び付いた言葉で表現される。それゆえ、不完全性定理はあらゆる学問、さらには政治的主張に的中する。あらゆる学問、あらゆる政治的主張には、命題も反対命題も証明できない言明があり、またどのような体系でもそれが無矛盾であること、つまり首尾一貫していることをその内部から証明することはできない。勿論、無矛盾であることが証明できないということは、矛盾していることを意味しないし、証明不可能な命題があることは、その体系の命題が信用できないことを意味しない。十分に確立された学問は信頼してよいし、それを様々な問題に応用しても破綻をきたすことはない。とは言え、あらゆる学問が、政治的言説が、不完全であることの意味は小さくない。如何なる者も自説の絶対的真理を主張することはできない。

 人の思考は、言葉を通じて行われる。そして、それが学問と言える次元にまで達するには、文字が欠かせない。文字は強力で人間社会の可能性を飛躍的に向上させた。しかし、学問が、技術が進歩するにつれて、言葉が限界として現れるようになってくる。数学だけではなく、物理学、化学、生物学、その他さまざまな学問分野が、それ固有の記号を生み出すことで、日常言語の壁を超え、広大な学問分野を切り開き、画期的な業績を生み出してきた。おかげで人類は巨大な文明を手に入れることに成功する。今でも、数学や物理学では、日々新しい記号が作成され、新しい問題を見い出し、解を探究している。他の学問分野でも同じことが言える。さらにコンピュータの普及と高速化、大容量化で、大量の記号が処理できるようになり、多くの分野に大きな進歩をもたらした。

 それでも、どこまで行っても、人は、言葉の壁を超えることはできない。言葉の限界が思想表現の限界を形作る。新しい言葉の発明で、その領域を拡大することはできる。だがそれでも、その先には無限の広がりがある。人は言葉という牢獄から脱出することはできない。ウィトゲンシュタインが「論考」で語ったことは正しかった。「語りえぬことには、沈黙しなくてはならない」というその最終命題は(トートロジーという意味で)無意味だが正しい。ただ語りえることの限界を予め定めることはできない。その意味では、人間の認識は進歩する。だが限界があることには変わりはない。言葉が世界を覆い尽くすことができない限りは、常に人はその限界の内部でしか動けない。言葉と世界の関係は複雑だが、言葉で全てを表現することはできない。言葉の本質である恣意性がそれを示している。言葉が世界となりえるのであれば、言葉には恣意性はない。

 この言葉の限界が最もはっきり現れるのが哲学や倫理学だ。それは言葉を超えようとするが、頼るのは言葉だけで、言葉の閉域を脱出できない。次に、人文社会科学も、この限界に強く拘束される。現代社会では、人々は主として文字と文字と結び付いた話し言葉を介して社会を形成する。その社会と人間を研究するには、言葉を介して対象に接近する必要があり、その言葉で接近することの限界がこれら諸学の限界となる。精神分析のような手法がしばしば引用されるのは、何とかこの限界を超えようとする試みだと言ってよい。経済学では数学を多用することで、限界を超えようとするが、対象が日常的な言葉を使って社会を形成する人間の活動だけに数学の有効性には限界がある。自然科学は、対象に実験や観測、観察を通じて接近することができるため、対象そのものの性質に従うことで数学を有効活用でき、また記録を残すことで再現実験も可能で、相当程度に言葉の限界を超えて(拡大して)いくことができる。しかしそれでも、どんな精密な理論も対象そのものと同一ではありえない。科学的なモデルと言えど言葉の限界を突破することはできない。カオスや複雑系などはその典型的な事例だと言える。また量子論や超弦理論の世界が理解しがたいのも、言葉の限界による面が強い。

 言葉の限界は、自然科学ではさほど大きな問題にはならない。人文社会科学では様々な問題を引き起こすが決定的なものではない。言葉の限界を痛感するのが倫理と政治と哲学の分野だ。私たちは善をなそうとする。幸福になり他人も幸福にしたい。だがその道を言葉では表現できない。これらの領域では、往々にして言葉は諍いの原因になる。哲学、倫理、政治には善い言葉が欠かせない。だが善い言葉は容易には見つからない。ある言葉が善い言葉か否かすら判別できない。この壁をどうやって越えるか、それが最大の課題となる。


(H26/2/12記)


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