☆ 心、この悩ましき存在 ☆

井出 薫

 「心」は、最も身近な存在であり、同時に、最も謎に包まれた存在でもある。アリストテレスやハイデガーは、哲学の第一問題は「存在とは何か」であると説いているが、存在を問う背景には、存在への驚きがある。ウィトゲンシュタインは「世界が神秘であるのではなく、世界が存在することが神秘なのだ」と語る。「なぜ何かが存在するのか」これが哲学を始めとする全ての学への動機となる。

 しかし、存在への驚きを感じるのは、人に心があるからだ。心そのものが存在者の一つである以上、理論的には、存在への問いは、心への問いに先行する。しかし心が存在に驚き、そして問うのであるから、心への問いは、哲学にとっては、より根源的な問いと言えなくもない。

 これまでも、心については何度も論じてきた。だが解明するには余りにも心の問題は深く、悉く途中で放棄する羽目に陥った。いや、正確に言うと、議論していると、どうしても心の問題に留まることができず、記号だとか、方法論の問題へと移行してしまう。その結果、いつでも、心という焦点がぼやけてしまう。そういう痛い目に会いながらも、性懲りもなく、今一度、心について、この悩ましきものについて考えてみたい。

 60が近くなると、老後への不安が募ってくる。死のリアリティも深まってくる。この不安はどこから来るのか、心からか、脳からか。心脳同一説者や唯物論者ならば、この問いは無意味な問いだと言うかもしれない。心は脳の活動に過ぎず、「どちらから」という問いは意味をなさないからだ。しかし、たとえ唯物論をとったとしても、不安は心が抱く、心から遣ってくると考える方が自然だろう。「脳が不安を抱く」という表現には明らかに違和感がある。

 心の根本問題、「なぜ心があるのか」に科学は答えを与えることはできない。脳科学など自然科学は、痛みや不安を感じているときの脳の働き、記憶のメカニズム、脳疾患や精神疾患に分類される病のメカニズムとその治療法を解明することができる。全選挙民の脳を調べることができれば、当選者を確実に予測することすらできるようになる。あるいは、どのような選挙戦略を取れば、候補者Aが当選できる確率が高まるか、選挙民の脳の動きを調査、分析し、最適戦略を割り出すこともできる。だが自然科学にできることはここまでで終わる。人文・社会科学は違う視点で心を問うが、それでも同じような限界に突き当たる。「なぜ(私には)心があるのか」という問いには科学は答えようがない。世界が存在することが科学の前提であるように、心もまた科学の目標ではなく前提となる。超弦理論のような物理学の究極理論が宇宙誕生とその後の宇宙進化のメカニズムを完璧に解明したとしても、そもそもなぜ超弦理論が成り立つ世界なのか、という問いには物理学は答えられない。「そうなっていなければ、人間が存在しなかった」というような人間原理を持ち出しても、ヘーゲル哲学から一歩も出ていない。同じように、心の根源的問題「なぜ心があるのか」は、世界の存在の究極理由と同様に、科学の対象とはなりえない。大雑把な表現をすれば、科学は「how」を問うものだが、心や宇宙の存在理由は「why」を問うもので、後者は前者の答えから導くことはできないと言ってもよい。

 「なぜ心があるのか」という問いから、より具体的かつ現代的な問いとして次のような問いが導かれる。「なぜ、コンピュータやロボットのように心を欠いた状態で、人は合目的的な活動をすることができないのか。」という問いだ。これは最初の問いとはやや性質が異なり、人間の活動の特性とメカニズム(つまりhow)を問う課題となるが、やはり解くことのできない謎に留まる。コンピュータが進歩すれば心を持つようになるかもしれないと考える者がいる。しかし、それは本当だろうか。駅で見知らぬ人と出会い、3時間ほど身の上話で盛り上がる。別れた後で、その人が実は人間ではなく、アンドロイドだと知らされる。そうしたら、どう感じるだろうか。心を有すると信じた相手が実は心のない存在だったと驚くか、遂に機械も心を持つところまで進歩したのかと驚くか、いずれかだろう。おそらく現在のところは、最初の反応をする者が圧倒的に多いだろう。しかし将来は分からない。いずれにしろ、どちらの驚き方が正しいかを決めることはできない。なぜなら機械がどのような状態になれば心を持っているかを決めることができないからだ。つまり「コンピュータは心を持つことができるかどうか」という問いには答えがない。何を以て「心がある」と言えばよいのか分からないからだ。

 コンピュータの数理学的なモデル(チューリングマシン)を考案し、自然界のパターン形成の数理モデルを提唱した20世紀を代表する天才科学者チューリングはチューリングテストを考案して、どのような条件を満たしたら機械は考えていると言えるか、という問題に対して一つのモデルを提唱した。チューリングテストで被検者が、自分が対話している相手が人間か機械か判断できないような機械は、「考えている」とみなしてよいとチューリングは提案する。だがチューリングは議論を「思考」に限定している。つまりチューリングは、広く「心」の条件について提案をしたのではない。科学者としては珍しく、チューリングはテレパシーなど超能力の存在を信じていた。機械がチューリングテストに合格し思考することができると認定されても、心を持ったとは言えない。人間は機械にはない超能力(テレパシーなど)がある。そして超能力は心の力とみなされている。だからチューリングにとって、機械には超能力が存在せずそれゆえ心もない、ということになる。要するにチューリングは機械の能力を評価する基準を提唱しているのであって、心のモデルを提唱しているのではない。

 チューリングテスト以外に、機械の能力を評価する方法は多数存在する。しかし機械が心を持つと判定するための合理的な基準はない。そのようなものは作れない。心は外部から直接観察できないからだ。科学は、人文・社会科学や心理学も含めて、(患者や被験者の発話を含む)外部から観察可能な情報を基にして、理論やモデルを構築し試験する。専ら主観的な何かを基礎にして理論を構築することはできない。しかし、心があるかないかは、各人の内的な問題であるから、科学の対象とはなりえない。アンドロイドのように心がないにもかかわらず心があるようにしか見えないように振る舞うことはできる。だから、機械が心を持ち得るかどうかという問題は、機械に心という言葉を帰属させる言語ゲームが社会に定着するかどうか、という問題に帰着する。つまり、人々が機械に心という概念を適用することに同意するかどうかという問題なのだ。そしてこれは科学の問題ではなく、純粋に実践的な問題になる。肯定的に答えようと、否定的に答えようと、どちらでもよいからだ。

 心の存在の問題は、機械ではなく動物に対しても存在する。動物は心を持つか、多くの者が哺乳類などいわゆる高等動物は心を持つと考える(動物が高等か下等かは恣意的な判断でしかないが、心を帰属させることができるかどうかが一つの判断材料となっている)。しかしミミズが心を持つかと問えば、持たないと答える者が多くなる。どうしてか?科学に答えはない。心を持つには、高度に発達した神経系が必要だと言う者がいる。しかし、心の有無の境界線はどこにあるのだろう。答えはない。ただ、私たちがミミズのような動物には心という言葉を帰属させないという言語ゲームを使っているからに過ぎない。少し前に「魚は痛みを感じるか」(ヴィクトリア・ブレイスウェイト著、紀伊國屋書店、2012年)という本を読んで大いに感銘を受けた。この本では魚の神経系の構造と、不快な刺激を与えた後の魚の行動を研究し、魚も(たとえば、釣り針に掛かった時など)痛みを感じていると結論付けている。しかし、著者自身が、一連の研究が哲学的な意味で、魚が本当に痛みを感じていることを示すものではないことを認めている。その研究は、人間からの類推で魚も痛みを感じていると判断する根拠があることを示しているに過ぎない。それは魚に心があることを証明している訳ではない。機械と同じように、そのような証明は不可能だ。

 機械にしろ、生物にしろ、心を持つかどうかを決める科学的な基準は存在しない。そしてそのような基準が存在しないことは、同時に、心がなぜ存在するかに答えられないことを意味する。答えられるのであれば、その根拠を、機械や生物の「心の有無」を判定する基準として使えるからだ。

 それゆえ、心の有無という問題は、要は私たちがある存在者に対して「心」という言葉を帰属させるかどうかという社会的な問題に帰着することになる。しかし、これは実は非常に恐ろしい欠陥を孕んでいる。機械や他の生物だけではなく、同様な考えを人間にも適用できるからだ。ナチはユダヤ人を虐殺した。当然、それを正当化する根拠はどこにもない。しかし、「ユダヤ人は心があるように振る舞うが、実は心がない。」という言語ゲームを流通させることで、ユダヤ人虐殺を正当化することが(理論上は)可能だ。心が無い物を破壊してもさほど良心は痛まない。機械を故意に破壊しても、人間に直接的な害が及ばない限り器物破損罪にしかならない。動物ですらそうだ。動物に心があると考えるから、動物を殺すことに良心の呵責を覚える。しかし、もし動物には心がないと考えれば殺すことに余り痛みは感じない。ミミズを殺すことにさほど心の痛みがないのは、普段ミミズに心を帰属させることをしないからだ。もちろん、ユダヤ人に心はあるに決まっているし、如何なる理屈を付けようと人間をガス室に送り込むことは絶対に容認されない。ナチは絶対的な悪だ。だが、心の有無を単に恣意的な社会的帰結だとすると、残虐行為を正当化することに利用される恐れがある。

 それゆえ、心の問題は、哲学者が好む認識論的な問題(他我問題)として扱うのではなく、倫理的な問題、法的な問題として扱うことが不可欠であることが導かれる。如何なる人種、民族、社会的な階級・階層、出身、性別であろうと、全ての人間は心がある存在(人格的存在)として認識され、尊重される必要がある。その根拠に哲学者の難渋な認識論など要らない。それは道徳、倫理的な判断、良心の問題なのだ。

 これに関連して、心を論じるときに、推論や言語能力など知的な側面を重視するか、快不快を感じる感情、感覚的な側面を重視するかという問題が生じる。功利主義の創始者と目されるベンサムは快不快を感じる能力を知的な能力よりも重視し、動物の生存権、同性愛の擁護、死刑廃止などを主張した。伝統的に、西洋哲学では知的な能力が重視され、感情や欲望は低俗なものとされる傾向がある。ベンサムやニーチェはその意味で西洋哲学思想では特異な思想家だと言えよう。しかし、日常的には、心を考えるとき、知的な能力よりも寧ろ感情の方が重視される。だから、動物に心を認める方が、コンピュータに心を認めるよりも遥かに敷居は低い。植物にすら心の存在を認める者がいる。先に述べたミミズに心を認めることもさほど難しくはない。特に日本人ならば、「一寸の虫にも五分の魂」という諺に文字通り共感できる者(虫にも魂があると認める者)が少なくないだろう。いずれにしろ、心を論じるときには、知的側面と感情的な側面の両方を考慮する必要がある。片方に偏ってはいけない。

 だが、心を感情や感覚の次元で捉えることで、益々、心は理論的には理解困難な存在となる。こうして、心の存在の問題は、解くことができない難題として永遠に残る。そして、私たちの課題は、全ての人を公平に心ある存在として、その生命、権利、幸福を尊重することができるかどうかということになる。さらに、哺乳類を筆頭に、人間以外の生物の権利もこれからの重要な課題となる。そのとき、先にも述べたとおり、人が、その生物に心という概念を帰属させることができるかどうかが重要な判断材料となる。全ての生物に人間と同等の権利を与えることは無理だが、一定の権利を認めることが望ましい。そのためには、人間以外の生物にも広く心という概念を適用すること、そのことに人々が広く合意することが望ましい。ただし、将来その機能が高度に発展した時に、機械にも心を認めるべきかという問題は難しい。おそらく現時点では認めることはできないし、認めるべきでもないと考えられる。


(H26/2/3記)


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