☆ カントの現代性 ☆

井出 薫

 今年で生誕290年を迎えるカント(1724年〜1804年)は、西洋哲学史上、最高の哲学者の一人と称されている。「最高の哲学者の一人ではなく、最高峰だ」とまで言い切る者も少なくない。

 しかし、その割には、20世紀には、世間一般でカントが話題になることはほとんどなかった。20世紀は資本主義の世紀であると同時に、マルクス主義的共産主義の世紀でもあった。マルクスに圧倒的な影響を与えたのはドイツ観念論の完成者と目されるヘーゲルであり、マルクスに共感する者や興味を持つ者にとって、カントはヘーゲル誕生の露払いをした者に過ぎなかった。斯言う筆者もその一人で、学生時代は、よく読みもしないで、カントは取るに足らない主観的観念論者だと考えていた。

 しかし時代は変わり、21世紀に入り、カントの重要性、現代性が再認識されるようになった。改めてカントの三批判書と関連文献を調べるとその理由がよく分かる。

 20世紀は人間主義の時代だった。60年代にすでにフーコーが「人間は死んだ」と宣言したものの、世間一般では、人間は科学的に世界を認識し、それに基づき世界を自由に変えることができると信じられていた。さらに、科学的認識は、自然を合理的に認識することに留まるものではなく、倫理的な問題、社会的な問題をも解決するものだとされた。特に教条的なマルクス主義がその典型だった。マルクスの教えに従い、輝ける未来の共産主義を実現するために専心すること、それこそが人間の倫理だとされた。それは歴史の必然であり、必然を知りそれを自らの行動指針とすることこそが、真の自由だと説かれた。それゆえ、マルクス主義に反対する者は、頭が悪いか、邪悪であるかのいずれかに分類される。前者は教育機関に送られ徹底的な思想教育が施される。後者は処罰される。現代人の多くはそこに自由はないと考えるが、当時の教条的なマルクス主義者たちにとっては、それこそが自由だった。労働者には自由の権利が与えられる、しかし反革命の自由はない。当時の本にはそう書かれている。考えてみると、それは必ずしも非常識な主張ではない。現代でも、殺人や強盗、強姦など犯罪行為をする自由は何人にも許されていない。共産主義に反対する行為が犯罪行為ならばそれが禁止されるのは当然のことだと言えよう。

 しかし、それこそが危険な思想だった。そこにはナチと繋がるものがあった。正しい者は、世界を正しく完全に認識し、完全なる計画の下で完全なる社会を建設することができる。それに伴い全ての倫理的な問題も解決される。この途方もない楽観主義が、途方もない悲劇を生んだ。スターリン主義の悲劇は、スターリン個人やその取り巻きたちの問題だけに還元できない。この途方もない楽観主義、行き過ぎた人間主義に全ての根がある。そして、ヘーゲルやマルクスの思想には、この行き過ぎた人間主義の影がちらつく。二人とも、個々の人間という存在には重きをなしていない。個々の人間とは、ヘーゲルにおいては、歴史の操り人形に過ぎず、マルクスにおいては、階級闘争の小さな断片に過ぎない。だが、それでも集団的な存在としての人間には途方もない力があるとされていた。紆余曲折はあるものの、集団としての人間は完全なる世界へと向かう。

 度の過ぎた人間主義の悲劇は、ナチズムやスターリニズムに留まらない。自然環境を大々的に破壊し、数多の公害や人災を引き起こし、飽食で成人病に悩まされる者が多数存在する一方で飢餓に苦しむ者が膨大な数にのぼるという歪な世界を生み出したアメリカを中心とする現代資本主義にも、このことは紛れもなく的中する。

 カントは、人間の認識は、直観的に感性に与えられた様々な印象を、悟性が構想力を通じて図式とカテゴリーを使用して加工し認識し、理性が悟性の認識を統制するという形式を取ると考えた。カントのこの考えが正しいかどうかは、今のところ問題ではない。重要なことは、カントが人間の認識には明確な限界があると考えたことだ。カントは、三批判書の掉尾を飾る「判断力批判」で、直観的悟性という架空の悟性能力を提示する。直観的悟性は、人間の認識のように、感性・悟性・理性さらには構想力など、いくつもの段階を経て認識する必要はない。それは回り道を必要とせず一瞬にして全てを悟る。正に神の如き知を意味していると言ってもよい。しかし人間にはそのような能力は備わっていない。だから、あれこれと試行錯誤しながら、認識を深めていかなくてはならない。だが、いくら認識が深まっても、どこまでも解くことができない謎が残る。カントはそう考えた。

 さらに、カントは、このようなカントの思想から必然的に導き出されることだが、理論認識を行う理論理性と道徳を知り行動を司る実践理性を区別する。しかし、カントは二種類の理性が存在すると考えているのではない。理性は一つだ。だが、カントにとって、理論的認識と実践とは統一することはできない。それは、理論認識が常に不完全で、理論と実践の間に横たわる溝を埋めることができないからだ。だから、カントは理論的認識の哲学と実践の哲学、という二つ哲学領域の区分を堅持する。その結果、カントにおいては、理論からは行動は導けない。それゆえ、たとえ正しい認識をした者でも正しい行動をするという保証はなく、また他の者は彼又は彼女の言うことに従う必要はない。

 しかし、ヘーゲルは弁証法的な論理で、理論理性と実践理性の差異を止揚してしまう。止揚とは解消とは異なり、差異を保存したままに統一することだが、現実的には両者の差異は実質的に解消されてしまう。そして、それが教条的なマルクス主義者たちに引き継がれ、前衛党たる共産党の綱領が唯一無二の真理で、それを守り従うことだけが正しい生き方だというドグマに支配されることになる。もちろん、マルクスやヘーゲル、あるいはその最も重要な後継者であるレーニンに度の過ぎた人間主義のレッテルを貼ることは公平ではない。ヘーゲルの弁証法は差異を解消するものではなく、差異を保持したままで高次の統一を図るもので、理論と実践を無差別に一元化するものではない。マルクスは、人間の認識が実在とは解消できない差異を持つことをはっきりと理解していた。だが、それでも、彼らの思想には、人間の能力に関する途方もない楽観主義、度の過ぎた人間主義的な香りが付き纏い、彼らの後継者たちに病が発症した。

 ヘーゲルやマルクスには、カントの慎重さ、知の謙虚さが欠けていたと言えるだろう。そして、ヘーゲルやマルクスだけではなく、同じことが、ナチズムやファシズムそして現代思想に圧倒的な影響力を有するニーチェにも当て嵌まる。ナチにコミットしたハイデガー、ナチを徹底的に批判したアドルノやアーレント、哲学に止めを刺せると信じたウィトゲンシュタイン、など20世紀の著名な哲学者などにも同じことが言えよう。そして、何より、現代社会そのものが、同じ誤謬に侵されている。「新しいことに挑戦すること」これが現代資本主義のモットーだ。そのこと自体が悪いことではないにしても、ここにも同じような度の過ぎた人間主義が潜んでいる。しかも具合が悪いことに渦中に巻き込まれている者はそれに気が付かない。21世紀にナチやスターリニズムの悲劇が再現されるとは思えないが、小さな規模では同じことが何度でも起きる可能性がある。

 それを防ぐ有力な盾となるのが、カントの批判哲学、そして、その背後にある、慎重さ、知の謙虚さだ。もちろん、2世紀以上も前の思想に過大な期待をするべきではない。カント以外の、しばしば保守思想家と紹介されるトクヴィルやバーリン、オルテガ、ハイエク、ポパーなどにこそ学ぶべきだという者もいよう。平和運動家やエコロジストの取り組みにも注目しなくてはならない。だが、カントほど、人間の知の構造を、慎重に吟味した者はいない。後継者であるフィヒテやシェリング、そしてヘーゲルがあっさりと超えてしまった一線を、カントは死ぬまでその一歩手前で踏みとどまった。人間の知は有限で、いつまで経っても完全な地点に到達することない、それゆえ実践を理論に、また逆に理論を実践に還元することはできない、そのことをカントが忘れることはなかった。それは非常に辛い立場に身を置くことになる。終着点に到達することで、差異を統一することで安楽を得たいという欲を捨てないといけないからだ。だが、まさにそのことこそが、今、必要とされている。つまり未完了、不完全であることに耐え続けること、それが求められている。


(H26/1/26記)


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